「横山房子全句集」335頁より 横山房子の人と作品
房子さんの眼鏡
村田喜代子
横山房子の句に私が連想するものは、曇りなく精度のよい眼鏡のレンズだ。生前の房子さんの顔に瞼をえがくと、いつもそのうつくしい眼鏡が光っている。
房子さんの眼鏡は磨き込まれているから、よく見える。それで、あるものを言う。ないものや、あやふやなものは言わない。しかし彼女のレンズは何でも射通すように見えてしまうので、ありうべからざるものがあるように現出する。
女性と眼鏡はつい先頃まで、不似合いなものの取り合わせだった。しかし房子さんには眼鏡がよく似合った。細面の白い顔と、着物と、眼鏡が、三つ揃うと、理知的で品格正しい女流俳人の風貌が整う。
明晰なレンズの目を持って、狂を言わず、虚を語らない房子さんの句は、現実派の台所俳句のようにみなされることもある。しかし房子さんの場合の台所は、食物の調理の臭いが立ち込めた、米のとぎ汁や魚を捌いた血や肉の脂でどろどろした女の仕事場ではなく、もう少し理性で乾いたモダンな場所である。そこでは房子さんの眼鏡も湯気で湿ったりすることがない。
かくいう私も長く台所のテーブルに原稿用紙を広げて書いてきたが、台所は世の男性たちが思うほど湿気に満ちたリアリズムの仕事場ではない。
中元で届いたハワイのコナ・コーヒーを淹れると、湯を注ぎながら見おろす褐色の激しい泡立ちは、眩暈のするような火山の噴火口に変りもする。梅雨時のらっきょう漬けの瓶の中は、じりじりと百個のムンクがひしめいている。台所は理科系の叙情漂う場所でもある。
房子さんは結婚以前、タイプライターを打っていたと聞く。若い頃も眼鏡をかけていたのだろうか。いつも眼鏡のレンズをきっちり磨いて、カツン、カツン、と明晰な音を立ててタイプライターを売っていたのだろう。結婚して台所に入った房子さんは、そのままの房子さんに違いない。
私は房子さんの食物の句が好きである。初めて横山房子という俳人を知ったのは、
寒雷やひじきをまぜる鍋の中
の一句によってだった。ちょうど私は『鍋の中』という小説で芥川賞をとった直後で、真っ黒いひじきが菜箸でかき混ぜられてぎらぎら照っている光景が、この句によって浮かんできた。自分の小説を五、七、五の十七文字で書いてしまわれたような気がした。私の『鍋の中』は原稿用紙百八十枚だった。
理科的叙情が深く立ちこめる次のような句もたまらない。
深皿に地球のごとき新玉葱
柔らかに煮られた地球。ほっこりと煮崩れした地球の経線が美味しそうに湯気を上げている。ならばそれを容れた皿は宇宙に違いない。深皿の温かみが癒しのようでもある。房子さんの理科は温かい。
地震すぎて歯軋りのごと浅蜊とぐ
この台所は恐るべき広さである。遠浅の海辺に地震の揺れがうねっていく。台所がゆっくりと傾いていくような不気味な句である。
次の句はシュールな映像を呼び起こす。
河豚食べて粗悪な鏡の前通る
昔、地元の料理屋の廊下の角に、よく錫の剥げた大鏡が掛けられていたのを思い出す。その鏡に映るものは、男も女も風景も、何でも荒んでうらぶれさせた。宴席を抜けてその前を通るときのひやりとした気分。鏡に映るのはどんな自分の姿だろうか。
そしてこの句はなぜか私の妄想を駆り立てる。
さくら照る家にあまたの握り飯
照るのは桜でなく、握り飯のほうだ。大きな握り飯がずらっと居並んで、お日様のように照っている図。爛漫の桜の下で、もうすぐ何か世にも大きなお祝い事でも始まる前の、賑やかで、めでたくて、しかしまだ物音のない、予兆の一刻である。
房子さんの台所は大きい。ひじきの大鍋に冬の稲妻が走り、スープ皿に地球が煮える。その台所の着物の主はどこかへ消えて、愛用の眼鏡が流し台に光っている。白く光っている。