「新潮」2009年8月号より

  ブラボー! マサヨ!  赤染晶子

『ドンナ・マサヨの悪魔』━村田喜代子

 

 

愛とは何か。そんな壮大な問いをマサヨは最近考えている。マサヨは夢見る乙女ではない。熟年の女性である。すでに閉経している(とても重要!)。そんな人がこの物語の語り手である。マサヨは倦怠期だ。夫との間にはもはや男女の愛はない。そんなマサヨのもとに「愛」がやってくる。赤ん坊である。娘の妊娠の知らせである。超音波画像に写る胎児を見て、マサヨは思う。「悪性腫瘍」。読んでいて、戸惑う。胎児は愛ではないのだろうか。いとしい命ではないのだろうか。胎児はさらにはた迷惑なメタファーを被る。「地蔵」。賽の河原の地蔵。さらに、戸惑う。物語の語り手は出産を知らない男性ではない。出産経験のない女性ではない。二十数年前に自ら出産を経験した人である。胎児の「おばあさん」となる人である。この視点に戸惑う。経験者だからわかるのではない。経験者だからこそわからないのだ。この妙な視点で物語は語られる。マサヨの過去の経験は主観としてどっしりと居座る。みじんも動かない。同時に、あまりに冷静で客観的なのだ。マサヨの口から愛は容易に語られない。胎児に「可愛い」と言う愛情も語られない。マサヨは素直に首を傾げる。マサヨが出産したときには超音波画像で胎児を認識する技術はなかった。医療の発展とともに、胎児の概念は進化している。胎児は何にもわからない未熟な生命ではない。すでに一人の人間として認識されている。胎教はまるで立派な教育である。絵本を読み聞かせる。歌を教える。愛や希望という観念を教える。胎児はすでにヒトとして認識されている。マサヨは決して胎児をヒト化しない。二十数年前の出産経験がそんなことを許さない。マサヨは胎児を「人間未満」と断言してしまう。

マサヨの妊婦への視線も独特である。妊娠してから、娘はマサヨにとって不思議な生き物になってしまう。お腹の大きくなった娘にもメタファーを投げつける。「満月を呑みこんだ蛙みたい」。「細長い鶴首の花瓶」。次々とメタファーが繰り出される。読んでいて、するするとマサヨの言葉は入ってくる。見事なメタファーだ。くすくす笑ってしまう。おかしい。妊婦はすでにヒトとして完成されているはずである。はっと気づいたときには胎教や逆子矯正体操に躍起になる妊婦が奇異な生き物に見えてくる。妊婦がもはや「ヒト」ではなくなる。マサヨのメタファーは妊婦を何か滑稽な「モノ」にしてしまう。マサヨの語り口は軽妙である。暴走しているみたいなのに、道は決して間違っていない。

マサヨだけではない。胎児自身もたやすく「ヒト」であることを拒む。マサヨに妊婦の体内から声がする。胎児だろうか。「悪魔」とマサヨは呼ぶ。この人は全く容赦ない。悪魔は語る。海から始まる長い生命の歴史を語る。悪魔はいくつもの命を経験してきた。時代を経験してきた。すべてを背負って今、母の胎内にたどり着いているのだ。ヒトまでの進化を駆け抜けてきた。命は「長い一本の棒」みたいにリレーされる。物語のスケールはどんどん大きくなる。物語は生命の根源にまで及ぶ。

悪魔は愛についても語る。とても卑猥に語る。人が人を思うあの尊い愛とは程遠い。ただ性の欲望である。交尾の延長である。そんな欲望から命は生まれ、つながれる。出産の苦しみをマサヨは断言する。「愛もなく男なんてものもありません。あるのは後悔の呻きだけ」。「愛だ。母性だなんてきれいごとでは語りきれない」。身も蓋もない。苦しい出産を見た妊婦の夫までも言うのだ。「愛の、・・・・・・墓場みたい」。誰よりも妊婦当人が苦痛のあまり絶叫する。「産みたくなーい」。ああ、愛はどこにあるのだろう。生まれてくる命の過程に愛がなければ、愛はいったいどこにあるのだろう。意外なところにある。悪魔は語る。死を語る。死を悼む心が芽生えた遠い昔を語る。亡骸に花を供える心を語る。愛はそんなところにあった。性の欲望とも無縁の純粋な愛は命の一番最後にやっと存在した。長い進化の果てに手に入れた愛は死の淵に存在した。その死を繰り返し、人類は今日にたどり着いている。

悪魔には本当の名前がある。悪魔は名乗る。長い進化のすべての生物の名前を名乗る。恐竜やアンモナイトやすべての生物を名乗る。総じて悪魔は自分を「ワタシ」と語る。長い名前の最後が「イルマーレ」。海を意味するイタリア語だ。世界の名前である。あらゆる生命の故郷である。あらゆる時代の原点である。悪魔は言う。「ワタシの名は永遠!」。「ワタシは一人だ」。「常にワタシであり続けるワタシである」。

胎児は成長する。悪魔の語りをよそに、「ヒト」としての刻印が刻み込まれる。人間の名前を付けられる。名前が悪魔を規定してしまう。世界やすべての命という何もかもから悪魔をかけらみたいにして、ちぎり取ってしまう。しかも、ついた名前が「ゴフレード」、イタリア語で「神の友達」。マサヨも寂しい。時代も世界も駆け抜けた悪魔がひとつの生き物として集約されてしまう。マサヨは言う。悪魔は名前のもとに「針の先に、虫のように止められたのでした」。悪魔はヒトであることを強要されてしまう。マサヨは嘆く。「もっと何かいろいろなものの可能性であったかもしれません」。胎児がようやくヒトの形をして生まれてくるラストには妙な哀愁が漂う。ふと、考える。この世には究極の問いがある。人間とは何か。ヒトはいつからヒトなのだろうか。ヒトは生まれる前からヒトなのだろうか。進化の過程でいつからヒトはヒトになったのだろう。現代の医療や科学や哲学は何かを横着に飛び越えてしまったのではないか。先走りすぎてしまったのではないか。そんなことを考えてしまう。「ワタシ」というこの概念さえ乱暴に思えてくる。一つの命の背景にある大きな命の流れにたじろいでしまう。そんな赤ん坊の名に「タカシ」と提案するマサヨの夫には笑ってしまう。愛とは何か。ちまちました男女の愛なんか飛び越えて、マサヨは断言する。「人類愛」。笑ってはいけない。そう。すべてはそれほど偉大だ。何よりも偉大なのはマサヨ本人である。すでに閉経したヒトである。「老いたるヒトのメス」である。性の役割ではなく、その存在や経験で次の命をつなぐ。最も「死」に近く、「愛」に近い人である。まさに「ドンナ・マサヨ」である。ブラボー!


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