文學界」2009年7月号より
ドンナ・マサヨの悪魔」村田喜代子

 

             胎児に凝縮された生命の歴史

                                 松永美穂

 

孫ってものが自分にはまだいないので、祖母になる気持ちはいまいちよくわからない。「子育てのときよりも責任が少ない分、素直に可愛がれる」とは、先輩たちからよく聞く意見である。自分で子供を産むときは、すごく『当事者意識』があり、緊張していた。自分の身体が未知の領域に突入し、どんどん変化していく! その変化を楽しむ余裕はあんまりなかったし、身二つになったらなったで、「子育て」に関するさまざまなことが、怒涛のように押し寄せてきた。もしもいつか孫なんでものに恵まれる機会があるのなら、今度はもうちょっと赤ん坊との共生を楽しもうと、秘かに心づもりしているのである。

「孫が生まれたとき、自分の遺伝子はこうして後代に伝わっていくんだ、という安心感を得た」と語っていた知人がいた。そんなものなんだろうか。自分の遺伝子。しかしそれは、単一の系列ではなく、孫の祖父母四人の要素が、複雑に絡み合ったものなのではないか。さらに前の世代、前の前の世代とさかのぼって考えれば、遺伝子を提供している人々の数は倍々で増えていくのである。

村田喜代子の作品には、しばしば生けるものと死せるものの命のつながりが描かれている。『蕨野行』では、一種の姥捨ての習慣で村を出た老婆が、落命の瞬間、胎児となって息子の嫁の腹に宿る。つまりは自分の孫として生まれ変わるのであって、もはや祖母としてその孫を抱くことはないにせよ、自分に優しくしてくれた嫁の子供として、再び家族とともに生きていく可能性を得るのである。生命の無限の連関のなかで人はこうして何度も生き死にをくりかえす。いま、ここにある自分の命が、実はそうした連綿と続く鎖の末端なのだということを、わたしたちは普段ほとんど意識しないのではないか。

『ドンナ・マサヨの悪魔』は、ユーモラスな家族小説である。二人で暮らすことに慣れた初老の夫婦の許に、イタリアに留学していた娘が志半ばで帰ってくる。愛情たっぷりのイタリア人の夫と、お腹の赤ちゃんを連れて。「夫婦愛という言葉は抽象的に過ぎます。もっと具体的な言い方が必要です。この歳になってからの夫への愛は、男と女でも、友達でも、同士でもない。まして身内でもない。人類愛という言葉が妙にぴったりと気持ちに落ち着くのです」と考える、語り手のマサヨ。一方、「愛の国」から来た婿の方は、朝から晩まで鳥のさえずりのように、愛の言葉をマサヨの娘、香奈の耳に囁き続けている。「ティ アーモ タント!」(すごく愛してるよ!)

男子厨房に入らず、を絵に描いたような亭主関白のタカヒロに対し、婿のパオロはまめまめしく料理をし、家事を手伝う。まったく対照的な二組の夫婦が、赤ん坊が生まれるまでの半年間を、一つ屋根の下で過ごすのである。

いまどきの育児事情、ことに祖父母達の孫育て事情が、端々に語られていて興味深い。ドイツでは、祖父母に対する育児休暇が真剣に検討されているとか。日本でも、保育園の送り迎えをする祖父母が多く、保育園の庭が中高年者の社交場となっているところがあるとか。まだまだ老人と呼ぶのがはばかられるような元気いっぱいの六十代も多いのであって、隙あらば孫育てに参入しようと、手ぐすね引いて待っている人もいるらしいのである。無理にやらなくてもいいけれど、頼られれば悪い気はしない、ということで、経済的にも時間的にも余裕のある祖父母の世代が育児の一翼を担う傾向は、これからますます強くなるのかもしれない。

若夫婦たちは忙しい。逆子体操をし、母親学級に通い、胎教に余念がない。妊娠と育児をめぐるそうしたエピソードもさることながら、この小説の大きな柱となっているのは、胎児とマサヨとの交信である。犬や猫の言葉を理解することのできるマサヨは、ある日、胎児が自分に「ばあさん」と話しかける声を聞く。まるで赤ん坊らしくないその声は、「おれは長い旅をしてきたの者だ」と、自分の来歴を語り始めるのである。

なるほど、それは長い長い旅である。生命の進化をそのままたどるような、何百万年にもわたる旅。わたしたちはこの本のなかで、足早にその旅を振り返ることができる。生命が海から生まれ、魚が水から揚がり、エラ呼吸から肺呼吸に切り替わり、足を発達させ、やがて哺乳類が登場し・・・・・・まさに目がくらむような、長い長い時間のあいだに起こったできごと。そうした生命体の記憶が語られると同時に、胎内の赤ん坊も、魚のような形から少しずつ人間の姿へと成長していく。胎児の変化が生命の進化に重ね合わされている点が興味深い。

さらに胎児は、原人だったころの記憶を語る。成長し、セックスをし、子供をもうけ、狩をし、家族を養い、やがて死ぬ、そのなかで、胎児の前世の存在であるその男は、何度も死に、また生まれ変わる。命の鎖が、そうして続いてきたのだ。やがて人間たちは死を悼むことを覚え、祈ることを覚え、固有の名を持つようになる・・・・・・。

壮大なスケールの物語である。「○○家」とか、「○○民族」などといった枠は取り払われて、すべての命が海を起点につながっていくのである。ドンナ・マサヨに話しかける胎内の「アクマ」は長大な名を持つが、その名前を包括するのは「イルマ―レ」(海)。イタリア語の単語であるところが可愛い。

生命の長い長いリレーのその果ての現在に、言葉を探り、道具を使いこなす人間としてあることの不思議。孫の誕生に際して、ドンナ・マサヨは生命の歴史の過程を再確認する。

こんな底抜けに明るい「妊娠小説」が、これまで書かれたことがあっただろうか?人生の酸いも甘いも知り尽くして、まもなく「向こうに行く」立場の祖母の始点から描かれたことが、視野の広がりを生んでいるのだろうし、婿が素直で家族思いのイタリア人青年、というところも、この作品に明るさと暖かみを与えている。身内ならずとも、赤ん坊の誕生を心から祝いたい気持ちになってしまうのである。

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