「群像」20095月号より

神よ、仏よ、大動脈瘤

                        小池昌代

 

村田喜代子の初期の作品に、『熱愛』という短編がある。「ぼく」と「新田」の男子二人組みが、オートバイでツーリングに出かける話である。山道の、幾つもあるカーブ。曲がるごとに、眼前に開けてゆく風景。そういうものを作家の文章は読者の肉体にじかに体感させた。本書を読みながら、あの作品が、私の脳裏にぱっと点滅する。両作品の間には、二十年以上の歳月が流れているのである。「熱愛」の中心には、微熱を帯びた「消失」の穴があった。先行して走っていたはずの「新田」が、不意に「消えて」しまうのである。宙でいきなり、ボールが消えるように。転落事故か、死んだのか。あたりは静かで、何がおきたという、かすかな痕跡さえ、見つからない。

人がいきなり消える穴。この世にうがたれた、その点ほどの穴を、この作家は、他の作品でも様々な素材でみせてくれた。たとえば便器の穴、鍋のなか。魅せられた人間たちが、そこに自ら、飛び込み消滅する。 

本書にもまた、人が吸い込まれていく穴がある。けれど「熱愛」のように、幻想が増殖していくすきまはない。人間は、穴のとば口、ぎりぎりのところで生に踏みとどまり、必死になってもがいている。死は現実の、リアルで切迫したものとして扱われている。

団塊世代の鹿丸夫妻が登場する。夫・義男が六十四歳、その妻・香澄は二歳下。共働きの同志的カップルで、一人娘は、結婚して外国に。娘には娘、つまり彼らにとっての孫がいる。異変は夫の義男に現れた。大動脈瘤が胸部に発見されたのだ。

長い結婚生活を経た彼らの会話は、ぶっきらぼうで時に喧嘩ごし、独特のいたわりに満ちているものの、必要な伝達のみがやりとりされる、ユーモラスで味気ないものだ。

ところが本書のタイトルは、「あなたと共に逝きましょう」という。これは香澄の、言葉にしなかった決心なのかもしれない。このようなせりふは作中にない。彼らはゆとりなく病と闘っていて、がんばれという、励ましの言葉ひとつそぐわない。けれど彼らが共に闘っていることには違いなく、その事実は、ごく自然に読むものに実感される。

だから読み終えて、タイトルを見たとき、しみじみ、ああ、そうかと思うのである。共に逝くって、心中みたいじゃないか。彼らは幸福な夫婦なのだ。

少年みたいな香澄さんと、自爆するかもしれない大動脈瘤をかかえた夫との間に、肉体の交わりが、あるのか、ないのか。わたしには少し気がかりだった。すると出てきた。結合の部分が。入院する前日の夜のこと。二人は静かに胸を合わせる。香澄の手が、夫の下半身にのびる。

「するとこないだまで男の体の中心だったはずの下半身が、冷え冷えと沈み込んで萎えている。何の反応も示さない。まばらな草の生えた平らな野のようである。動脈瘤が義男の中心に取って代わったのだ。/男の体の不思議なこと・・・・・・、今や義男の中心となった瘤だけがぎらぎらと燃えている。」

病や肉体の痛み、傷といったものは、排除すべきものであるにもかかわらず、実際にはこんな風に、命の中心に居座り、その人を変えてしまう。この作品では、病いが強き者。弱いはずの病人が強き者となる。病んだ人々が少しでも癒えようと、焼野温泉の岩盤欲に集う姿には、その強き者としての迫力と悲しみがあっておかしい。皆無口に岩に張り付き、「人間をやめでもしたように動かない。」生の岩盤にしがみついた姿が、死んだように見える皮肉。

それでも著者は、老いと病いのとば口に立つ、この迷える人々を、なんとかして前へ、進ませようと、一種の応援歌を歌っている。亡くなった二人の歌手、三波春夫と村田英雄の、最晩年のテレビの映像が作中で紹介される。両足切断、丸坊主の痩せた顔で、舞台に立ち、歌う村田英雄。

花の萎れたらんことこそ面白けれ・・・・・・。『風姿花伝』の一節が、こちらの骨にも、じいんとしみてくる。

義男の手術が成功したあとで、本書にはもうひとつの読みどころがあらわれる。妻・香澄に、心の異変がおきるのである。彼女は鬱々として、もう死んでしまいたいとまで思う。よく、わかる。共に闘った夫のほうは、当事者であり、治療して万歳、それで終わり。つきそうものは、看護終了という突き当たりにぶつかって、目的を失い、立ち止まってしまうのだ。終わりはまだ、先にあるように思われて。当事者と看護者では、このように、抱えている時間に落差がある。

本来ならば、届かない所、届いてはいけない所、届くはずもない所、そういう人間の肉体の、守られるべき暗室に、メスが到達し、肉体は修復された。香澄は、その事実に呆然と立ち尽くす。延命という、結果それ自体は、とりあえず喜ぼう。それでも肉体が冒?されたという、その思いは彼女を深い内省へと誘う。これは医療とその技術進歩に対する、香澄の繊細で力強い抵抗だ。

作品中には、香澄自身が、血の池の遊女となって、男に身請けされる夢がはさまれる。わたしの知る、「熱愛」の頃の村田喜代子だったら、こういうところが、もっと大きくふくらんでくるはずだが、この作品では、あくまで現実に言葉がよりそい、夢や幻想は、最小限、おとなしく眠らされている。やわな幻想は、病いが打ち砕く。病いとは、人間に君臨する王のようである。

わたしはただ、この本を読んだだけで、義男の看護をしたわけではない。けれど、病院のベッドに身を横たえて、香澄のように眠りたくなった。もちろん、彼女も、存分に眠らせてあげたい。眠りには、どこか甘美な死の感触があるとしても。

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