200495  読売新聞より

渡来陶工一族の結婚騒動

評者・川上弘美(作家)

 

 愉(たの)しい、だろうか。いや違う。面白い、だろうか。それも違う。体の中の結ぼれがすっとほどけるような、それは気持ちよさだ。本書の読後感のことである。

 そうだ。痛快なのだ。靄(もや)っていた空がぱっと晴れ渡ったような痛快さ。そんな解放感に満ちた小説である。

 17世紀のなかば、朝鮮から九州に連行された渡来の陶工たちがいた。作者は6年前に『龍秘御天歌』で、朝鮮と日本の文化の相剋(そうこく)や融合を、陶工の長の妻である百婆の語りによって描いた。本書はその続篇ともいうべき作品だ。

 「百婆が死んでからだいぶ経った」という導入にまず驚かされる。百婆は死んで神となった。饅頭(まんじゅう)墓に陣どり、下界を見晴るかす毎日だ。悟りすました神ではない。百婆の死を悼むために毎日墓参りを欠かさない孝行息子の十蔵の哀号にも、ときどき飽いてしまったりする茶目っけある神だ。そういう時、百婆は窯まで降りていって子孫たちを眺める。血気盛んな者たちだ。この子らを、ほっておくことはできぬ。百婆は思う。よろしき者と娶(め)あわせ、窯の繁栄をはからねばならない。静かに死んでいる場合ではないのだ。百婆の活躍が始まる……。

 前作ではどちらかといえば対立的であった2つの文化が、本作ではより交じりあい、溶けあい、ないあわされる縄のように新しくかたちづくられてゆく。結婚という、めでたく明るくまた野蛮な行いを通じて描いたことが、よく効いている。人間というものの、ばかばかしくもいとおしい生の営みに、こころおきなく笑え、こころおきなく泣ける。

 作者は生の苦みを知悉(ちしつ)しているのだろうと思う。けれど苦みをそのまま差し出すことはしない。苦渋をゆったりと押さえこんだうえで、さらに大きな視点に依(よ)って描く。そこから、痛快さがたちあらわれるのだ。生きるよろこび。そんな言葉も思った。なんとも華やかで愉悦に満ちたよろこびが描き出されているではないか。

◇むらた・きよこ=『鍋の中』で芥川賞。(講談社 1800円)

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