『夜明けの縁をさ迷う人々』小川洋子著(角川文庫)より

解説━永遠を拾いに

               村田喜代子

 

九つの短編の最初と最後は野球を舞台にしている。野球に始まって野球に終わる。私はスポーツに全く縁がなくて野球というもののルールを知らないが、小川洋子の野球の小説はそんなものは知らなくても充分入っていけそうである。

小川洋子の野球に必要なものは、選手の頭の上に広がっている無辺際の空と、選手の踏みしめている地面である。空には輝く太陽はあってもなくても構わない。ただこの世界を分かつ天と地の二層の隙間に、ちっぽけな選手の体が挟まっている。そしてそれは<人間にとっての最高の身体表現>堪能(たんのう)させてくれる素晴らしい体なのである。

といっても最初の短編「曲芸と野球」で、河川敷の原っぱに登場するのはそんな野球少年と、もう一人水門小屋の屋根の上で逆立ちを練習している女性曲芸師だ。ここでは少年が自分の出番を待つ間水門小屋の上の曲芸師を眺めている。四個の椅子を積み重ねた天辺に曲芸師は逆立ちして、彼女もまた少年の試合をじっと観戦している。

曲芸師は薄い水のような空と水門小屋の屋根の隙間にしずかに体を浮き上がらせている。

地上にも、屋根にも、椅子の塔にも、どこにも属していない状態。打球の音も僕たちの歓声も犬の鳴き声も届かない瞬間に、曲芸師は吸い込まれている。

ずっとそのままならいいのに、と僕は思う。

 

こうなるともうこの短編のめざすところは、身体技能の世界を突き抜けているようだ。ずっとそのままならいいという<そのまま>とは、地上を離れた世界のことである。()(がん)から彼岸へ渡るように、身体世界から精神世界へ抜けるように、曲芸師は身体技でもって永遠の一瞬に(かたど)られようとしている。

いつだったか小川洋子の新聞エッセイで、槍投(やりな)げか砲丸投げをする人の姿を書いた文章を読んだとき、その鮮やかさに、村野四郎の『体操詩集』を思い浮かべたものだった。その詩は叙情(じょじょう)を取り払ったカメラのような眼でスポーツをする肉体をとらえていた。

 

僕は地平線に飛びつく/僅に指さきが引つかかった/僕は世界にぶら下つた/筋肉だけが僕の頼みだ/僕は赤くなる 僕は収縮する/足が上つてゆく/おお 僕は何処へ行く/大きく世界が一回転して/僕が上になる/高くからの俯瞰/ああ 両肩に柔軟な雲

                              「鉄棒」

 

昭和十四年、戦前の即物主義の鋭利な感覚の実験詩だが、この筋肉への憧憬(しょうけい)と、空との合体感は小川洋子の身体世界と通じている。空との合体とは<永遠>との合体なのである。

 

彼は地蜂のやうに/長い棒をさげて駆けてくる/そして当然のごとく空に飛び/上昇する地平線を追ひあげる/ついに一つの限界を飛びこえると/彼は支えるものを突きすてた/彼に落下があるばかりだ/おお 力なくおちる/いまや醜く地上に?倒する彼の上へ/突如 ふたたび/地平線がおりてきて/はげしく彼の肩を打つ

                        「棒高飛」

 

小川洋子も即物主義の明晰(めいせき)な眼の持主である。彼女は科学が好きだといっている。鉱石、身体、骨の標本、子供の頃から『家庭の医学』は愛読書だったというのである。美しいと思うことは科学への扉の一番の近道だという、その科学に人体標本なども入っているのだから彼女の思う美は生命を司る人体の「秩序」と「法則」でもあるのだろう。

 

法則といえば、これも彼女の書いた新聞エッセイで、一番好きな本は何かと問われると答えようはないが、一番好きな題名の本ならすぐ答えられる、と書いていた。その本とはジョン・マクレガーの『奇跡も語る者がいなければ』であった。

イングランド北部に暮らす人々の一日を描いた小説で、登場人物の一人が一斉に飛び立つ鳩の群れを指して、鳥同士がぶつからないのを見たかい、と娘に言う。こういうことは気をつけていないと気づかずに終わってしまう、特別なことなのだと教える。奇跡も語る者がいなければ、どうしてそれを奇跡と呼ぶことができるだろう・・・・・・、と。

 

「この本の背表紙を見るたび、小説を書く意味を、誰かが耳元でささやいてくれているような気分になれる。鳥が一羽もぶつからずに飛び立ってゆく奇跡を書き記し、それに題名をつけて保存することが私の役割なのだ。私にもちゃんと役割があるのだ、と思える。そうして再び、書きかけの小説の前に座る。」

 

思えば小川洋子という人は実に奇妙な作家である。飛び立つ鳩の群れの奇跡や、人の体がきっちりと血液を循環させて心臓が()つ奇跡や、日が昇って日が沈む奇跡に眼をみはる人なのだ。

小説家というものはむろんそのような「奇跡」もふくめて、永遠や普遍への憧憬も併せて、すべて、人間の社会や人間の心へと、舞台・題材を収束させて描いていくわけだが、小川洋子のことに短編では人間を飛び越えて、登場人物より話の「状況」が主役に取って代わる。名前を与えられない人間たち。あだ名や、職業、頭文字だけの人物が物語の「状況」を引っ張って行くのである。

「曲芸と野球」の曲芸師しかり。「教授宅の留守番」のD子さんしかり。「イービーのかなわぬ望み」のイービーは、なんとエレベーターの中で生まれた男のエレベーターボーイの略称だった。ラストの短編「再試合」に出てくる野球選手は、ただ彼としか呼ばれない。そしてそれだけで成り立つようなシンプルな構造の小説なのである。

小説を動かすものは、恋愛でもなければ、人間関係でもない。この短編集の作品群を成り立たせているのは、奇妙な時間の連続性であるとしか言いようがない。<ずっとずっといつまでも>メリーゴーランドのように回り続ける世界。いつまでも終わらない連続運動のような永劫(えいごう)回帰的な世界だ。

曲芸師は怪我をし続けながら屋根の上に椅子を積み重ね、イービーは自分の生まれたエレベーターに棲み着き、「再試合」の少年選手は勝敗のつかない試合を永遠に重ねるのだ。

小説を終わらせるには曲芸師はついに屋根の椅子から墜落して死なねばならず、イービーは崩壊するエレベーターと運命を共にせねばならず、少年選手は終わりのない試合のため、百何歳の老人になっても甲子園の土の上に立ち続けねばならない。永遠は彼らの上に不吉な星となって光っている。

しかしこの連続性は小川洋子が小説のために作ったものとばかりはいえない。私たちは回り続ける天体と共に日々暮らし、もう飽きるほど朝日夕日を眺めてきた。犬は散歩コースを一生巡り続け、バスやJRは犬よりもう少し大きな循環コースを巡るだけだ。

もし命というものがエネルギー保存の法則に従って、初めから在るものは永遠に在り続けるという不思議な存在であるならば、私たちはもっと巨大な循環に身をまかせて生死を経巡り続けねばならない。

そんなことを考えると私は何とも奇っ怪なこの短編集を、もうひとつ別の意味のしみじみとした小説として見てしまうのである。

 

とはいえ九編を読み終えての感慨は、何より小川洋子という作家は発想の人だという驚きである。発想力は、頭脳の運動力であり、ちょっと変な言い方であるが、頭脳の体操士とでも呼びたいくらいだ。そして、そうやって、作家は書きたいものを書き続ける。書かずにはいられない。その書きたいものとは作家にとっての憧憬、希求であろう。思えば小説家とは幸せな職業である。と、これは私自身についての述懐なのでもあるが。

 

私はふと想像する。

彼女の仕事部屋のドアが開いている。

中には部屋の主はいない。窓の外に夜の海と(なぎさ)が月に照らされている。パジャマ姿の小柄な人が浜辺に出て、砂の上に落ちた青白く光る小さなものを拾い集めている。(てのひら)に載っているのは、空から降ってきた、貝殻みたいな「永遠」の欠片(かけら)である。

 


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