解説  わたしの中の『小公女』    村田喜代子

小学校の頃、近所に五歳上の従姉がいて『小公女』は彼女の本棚から借りて読んだ。従姉もわたしも一人娘だったので、お互いに姉妹のように行き来していたが、性格はまるで違っていた。

彼女は小さいときから書道だとかと琴だとかお稽古事を習い、学校も私立のキリスト教系の中学へ通っていて、優しいお姉さんのような少女だった。一方わたしは母が再婚し祖父母の家に預けられて育ったが、年寄りはあまやかし放題で、勉強はせず、近所の少年達と廃線になった汽車の鉄橋を渡りに行ったり、幽霊屋敷とよばれていた昔の銀行の崩れかかった建物へ探検に出かけたり、男の子のようだった。

当時わたしが持っていた本も『地底旅行』『海底旅行』『岩窟王』のような少年読物がほとんどだった。そして従姉の本棚にはいかにも彼女にふさわしい少女小説が並んでいた。だからもし彼女がいなかったら、わたしはたぶん『小公女』のような本とは出会うことはなかっただろう。

学校の図書室で『若草物語』や『赤毛のアン』などを読んだことはあるが、あまり面白いとも思わなかった。なぜ当時のわたしが少女小説に興味がなかったかというと、たぶんそれらは人間関係小説だったからだと思う。会えばいきなりパチンと相手の頭をぶって、たちまち喧嘩をはじめ、それでよけい仲良くなるような男の子達の世界と異なり、女の子の世界は既に早くからおとな社会の秩序がとりこまれている。女の子の友情はパチンとぶったりするところからは生まれずに、たくさんの会話、おしゃべりから育つのだ。

わたしは少女小説によって、本当はこうした社会性を学ぶべきだったかもしれない。ところが、わたしが本に求めたのは夢想の楽しさだったので、それはたいてい少年物の冒険小説で得ることができたのだ。さてこんな男の子のような少女がある日、『小公女』をなにげなく読みはじめて、なぜかたちまちその世界に浸りきった。そこには冒険記とは違った形だけど、まさしく夢の世界があったのだ。

『小公女』は、賢い美しい大金持ちの娘が、父の死によって貧しいみなしごになるが、気高い心を持ち続けて逆境を生き、やがて父の遺産を得てもとの幸福な少女にもどる話。つまりシンデレラ・ストーリーだ。『若草物語』や『赤毛のアン』などと比較すると、文学としての志の高さの点ではこのあら筋だけで劣るだろう。しかしそこには、両親のいないわたしのような女の子を、しばしうっとりさせる世界があった。

第一章のセーラと父の別れの場面、父とはこんなに優しいものか、とわたしははじめて知ったのである。そしていつのまにか主人公セーラになりきって、父親との別離に涙を流していたのだった。それから彼がセーラに買ってくれたたくさんの洋服や、エミリーという名の人形など、戦後ろくな着るものも玩具もない頃だったので、ただもう子供心に溜息が出た。主人公が自分からかけはなれているほど、深く夢をみることができる。わたしはたちまち本の中に飛びこんでいった。

おとなになってから『小公女』への熱中を思い返す時、わたしはある種のうしろめたさを覚えずにはいられない。『小公女』には他の少女名作に含まれている、おおらかさやのびやかさが欠けていた。さらにこれからおとなになっていく女の子達が学ぶべき、ある種の教訓や益がないのである。セーラの持っている稀にみる気高い心も、大金持(いやな言葉だ)の生い立ちも、特殊性だ。セーラは普通の少女ではない。その普通の少女でない彼女が、みなしごになる。すると貧しい屋根裏部屋に信じられないような救い主の手がのびる。セーラの身に起こる不幸は父の死を別にすれば、ミンチン学校の虐待などは世間によくある現実的な話である。それにくらべると彼女に訪れる幸運は非現実的過ぎて、おとなの目で読むと、こんな幸運、強運の娘にかかずりあったミンチン女史に、同情したくさえなる。

そうなのだ。『小公女』という名作のうしろめたさは、この愛と善意に満ちた奇蹟とか偶然が作中で猛威をふるうかにみえるほどの、ある閉鎖性と至福性につきるのだろう。それと、この本はインドを植民地にしていた時代のイギリスを舞台にしている点で、時代的な裁きを背負っている作品でもある。セーラの幸・不幸はイギリスという国のインド支配の上に生まれたものだ。しかし小説の中でインドは、ただ不思議な南の国の情趣としてあつかわれる。

セーラもすっかりむちゅうになって(中略)ダイヤモンド鉱山の絵をかいてやった。壁にも床にも天井にも、きらきら輝く石。黒人たちが重いつるはしをふるって、その石をほっている。そんな、深い地面の下の、迷宮のような、坑道の絵だ。

というぐあいに。

わたしは『小公女』の閉鎖性と至福性を思うとき、なぜか映画『ローマの休日』を一方に浮かべてしまう。これからの物語の世界は、現実からの遠さの点でも、文句なしに人を夢みさせる点でも、群を抜いているからだ。なんのかのと言いながら、やはり『小公女』は夢の作り方として、女の子達の、いや人間のと言ってもいい、願望の一つの心理をみごとにつかんでいる。

しかし、こういうことを抜きにしても、やはり『小公女』は秀れた文学である。それは主人公セーラの性格が、じつにていねいに書かれているためだ。たとえばセーラは言う。

「ものごとって、みんな偶然におこってくるものね。わたしには、たくさん、いいことばかりおこったのだわ」

自分が勉強や本の好きなことも、習ったことをすぐ覚えられるのも、立派な父のもとに生まれたのも偶然のせいだ、と言わせている。そしてこんな幸福な偶然の元で育った自分がいい子であるのは当たり前で、不幸だったらいやな子になっているかもしれない。と内省させる。逆境の時こそ人間は大切で、自分は断頭台にのぼっても王妃の気高さを失わなかったマリー・アントワネットのように、公女の気品でのりこえよう、というくだりなど、少女小説の主人公の個性を超えた、独特のリアリティがある。古き良き時代の、気位の高い小さな公女の物語として、やはり一つの文学の高峰だろうと思う。

本は人を選ぶというが、『小公女』の持ち主の従妹は学生時代常に成績はトップ。優しく、賢かった。だがその後半生はおもいがけない辛酸を味わい、商売をしながら女手一つで二人の子を育てた。わたしは従姉のことを思うとき、ときどき、この本のことを考える。彼女のこれまでの人生の中で『小公女』の一冊はまだ永らえているだろうか。わたしの中で輝いた、この本を読んだときの至福が、彼女の中ではその後どうなっているか、もっとずっと先に、彼女が穏やかで平安な日々を迎えた頃には、その時こそ懐かしく聞いてみたい気がする。           
河出書房新社「世界文学の玉手箱I小公女」解説から

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