『スペインうやむや日記』堀越千秋より

 

解説 空行く鳥のように       

              村田喜代子

 

堀越さんは国際人だそうだ。そうだ、とっても別に疑っているわけではない。

「なぜ私が国際人かというと、スペインに二十年も住んでいるから」

と本人が退屈そうに証明している。

なるほど二十八歳でスペインに渡って以後、二十五年間ずっと彼の地に身を置き、人生の半分を海外で暮らしているのだから、国際人というよりも半分以上ガイジンである。

ガイジンの証拠に、たまに日本に帰って来て彼と会うと、おうーっとばかりに両腕を広げて、その腕の中に私がすっぽり入るのを待ちかまえる。ここへこい、こい。日本人の男はこんなことしないね。それに汚れ手拭いを腰にぶら下げた堀越さんとなら噂も立つまい。

本著ではその国際人の彼が、いろいろ国際人の特徴をあげている。その中で唸ったのは、

「国際人とは、長年の孤独に慣れた者のことなのである」

という言葉だ。これには堀越さんならではの、海外放浪者の哀歓がじーんと迫ってくる。

言葉はろくにわからなくてもわかったふりをして、町を歩けば「イエロー!」という声が飛んできて、イギリスに行けば帰りの飛行機に乗り損なってお金を使い果たし、あげくは夜明けの勘定前にホテルを遁走。霙の降るテムズ河の畔をさすらう姿など、国際人が一般普及化する以前の古典的国際人だ。

ということは堀越流の国際人とは昔のヒッピー、今のホームレスの謂いだったのかと思えるふしもある。だからこそ、「忍者と国際人は背後に敏感である」なんて卓見も出てくるわけだ。

しかしスペインに住んでいるから国際人なら、アメリカにも、イギリスにも、フランスにも、イタリアにもいるわけで、各国でそれぞれの国際人模様が見られるわけだが・・・・・・、スペインの国際人は画然としてアメリカやイギリス、フランス、イタリアの国際人とは性質を異にする。何しろスペインなのだから!

堀越さんの明かすスペインを知れば、大半の人は他のどの国へ行ってもスペインだけは行くまいとおののくのではなかろうか。恐るべき「バロック魂とでもいうべきところの自他混同、唯我独尊」の国である。

その独尊ぶりは以前、加藤周一の「スペイン旅情」に、誇りと短刀の国とあったのにも恐れ入ったが、昔の誇り高いドン・キホーテは、いまはタクシーの運転手だったり宿屋の給仕だったりするというから大変だ。スペイン語がまずいといっては、ホテルでいい直しをさせられる。自分たちは英語もできないのにである。教育程度は高くない。面倒そうな国だ。

そこで我が堀越さんも鼻つまみのスペイン気質を、これでもかとぶちまける。

スペインの中でも、セビーリャのお国自慢はほとんど病気だ。死に至る病という。アンダルシア人は立ち小便をする。トレド人は枕詞を使う。「ベンツでどこそこへ行った」というときは「ベンツ」は、日本でいう「たらちねの」と同じだという。そういえば半分スペイン人である堀越さんも、「私」の上に、「金持ちの」という枕詞を必ず付加する。「国際人」もそのバリエーションであることはいうまでもない。

行方不明者はたちまち「死んだ」か「刑務所」へ行ったことにされてしまうような国。断定と、言い張ることは、スペインの国技なのだそうだ。女性は美女だが煮ても焼いても食えなくて、何かうらみでもあるのか、

「誰に許されて、彼女らはあんなに威張っており、わがままであり、傍若無人であり、シリメツレツであり、没理論的であり、没個性的である、保守的であり、ヒステリックであり、お行儀が悪いのであろうか」という具合。

そして頭の中にサッカーと闘牛しかない男たち!

ジプシーもまた油断ならない。

「他人の畑から熟れたブドウを胸一杯かかえて出てきて、わしづかみに口に入れて種ごと食う。と思うと、はらりと腕を落としてブドウをみな捨ててしまい、さっそうとはだか馬にまたがって走り去る。もとより無一物。ダンディーじゃござんせんか」

こういう面々が跋扈する。ヒエロニムス・ポッスの絵の、奇妙な化け物たちで賑わう地獄を連想する。しかし罵りつつも二十五年間、彼をとらえて離さなかった。

美貌の悪女のような国である。

だが鉄の心臓でも持たなくては、お人好しで謙譲の美徳に溢れた日本人は暮らせない。一度もスペインに行かないのに勉強になる本だ。

 

そこで私が思い出すのは堀越さんといった、昨年の中国旅行だった。

雲南省の少数民族の村を訪ねる旅だが、ミャンマーやラオス、ベトナムなどと国境を接した、中国でも辺境の地である。通訳も漢語と少数民族後と二人必要な土地柄だった。面白そうだから一緒に行くという女友達と二人。

だが心細い。現地の通訳は男性で、どこまで信用が置けるかわからない。そこで私たちの頭に救世主のように浮かんだのが堀越さんの顔だった。何しろ自他共に許す国際人である。中国語はできなくても、道中に起こりうるアクシデントには対応できるだろう。

身長の問題は置くとして、体重および腹の出っ張り、並外れた大音声の持ち主でもある。スペインの放送局でフラメンコを歌ったとき、音量を測定する計器が振り切れたという。

とにかくスペインにあっても見劣りしない風貌だ。時代劇ならぬ夜盗・山賊・野武士の面構えでふてぶてしい。あの顔であの声であの体で、しかも国際人である。用心棒にもってこいの人物とばかり、日本に帰ったところを誘うとご本人は一も二もなく乗ってきた。

行きは関西空港の近くにあるホテルに泊まって、翌朝、省都の昆明へ飛ぶ予定だ。夕方そのホテルで落ち合って食事をする約束をした。ところが堀越さん、一時間、二時間と経ってもこない。携帯電話は切っている。とうとう先に始めた食事も終わってしまった頃、やっと携帯がなって、今から行くが大阪駅からこちらへ来る電車がないという。あたりまえだ。何時だと思ってる!しかしこんなときに携帯を切っている感覚も不思議だった。

それでもさすがに旅なれた国際人で、二時間後くらいにくたびれた旅行鞄となにやらホームレスめいた袋を背負って、ヤア、ヤアと声だけ太いが疲れ切って到着した。どのようにしてきたのかは私は知らない。

翌日、昆明に飛んで五泊六日の短い旅が始まったが、堀越さんは朝の集合時間にまともに出てきたことは一回もなかった。私たちはほとんど毎朝、一時間はたっぷりロビーで待たされた。添乗員は若い神経質そうな中国人の青年で、もううんざりという顔である。

五分や十分の遅刻ならともかく、一時間も部屋で何を手間取っていたのかわからない.夜型人間というふうにも見えず、目覚ましの音に気づかず寝ていたというのでもなさそうだ。ヤア、ヤアと悪びれもなく笑って現れる。

「これがスペイン時間なのよ」

と女友達は言う。するとこれぞ国際人の証なのだろうか。そういえば以前、知人のルーマニア人と旅した時も、時間にルーズな点は彼らもひけを取らなかった。何しろ買い物に夢中になって、一日一便のルーマニア行きの飛行機に乗り損ねてしまったのだ。

雲南では案の定トラブルがあった。日本の旅行者が作った日程表が現地と食い違い、何度か添乗員の青年とやり合った。だが一歩も引かず交渉したのは女友達だった。役立たず!

旅の間、堀越さんはエカキなのにスケッチもしない。厳然と言うか、猛然と行為を起こしたことといえば、唯一、お茶買だった。道中で私たちは中国茶にはまってしまい、それは帰国後の今も各自続いていて、あの旅が運命的な出発点になったのだ。

堀越さんは中国茶店に入ると人が変わったようにギョロ目を光らせ、抜かりなく店内を物色する。朝は誰よりも遅く起きる彼だが、帰路の中国茶の大包みだけは負けなかった。

それともう一つおかしいのは、堀越さんの頻尿ならぬ頻便である。小学校以来の排便強迫症で、これは日本の少年の精神的風土病だと弁明するが、そんなの聞いたことがない。それより何だか旅の一里塚のようである。馬は歩きながら、鳥は飛びながら排泄する。常に身を軽くすることでは堀越さんも彼らに負けない。

 

隠して空行く鳥のように身軽な堀越さんは、世界を俯瞰する。チェルノブイリで原子力発電所が爆発事故を起こしたとき、数日後マドリードに雨が降った。芝生が枯れた。トレドでは木の芽も枯れた。町には妙に安い蜂蜜が出まわった。スペインへの影響はごく軽微とテレビのニュースは伝えるが、彼はそうは思わない。

マドリードでは近所にガンが多発した。日本に帰ると、こちらも知人にガンが増えた。日本はチェルノブイリから遠いのだろうか?

「ピレネーの上空からアルプスが見える。アルプスからウラル山脈は見えるし、ウラル山脈からヒマラヤや富士山は見えるのである。

科学者や政治家にはみえなくてもビンボーエカキあたくしには見える」

時間にルーズでもよし、排便強迫症でも困ることはない、この目があれば真の国際人だ。

もう一つ堀越流の国家論。

「西洋人は、面子よりも実質的な損得を取る。(中略)ヨーロッパとは、金品と武力で倫理を売買してきた歴史ではないか。

もちろん、人間の一人一人は、道理をもって説けば通ずるものである。どこの国だって、個人というのはおおむねそうである。が、国家とか政府とかいうものは、個人より随分劣っている。野蛮である。

どこの町だって、何かというとピストルや刃物を出してくる隣人というのは、そうそういない(アメリカはしらないけど)。しかし、国家というのは全部軍備を持っている。いつも腰に刀やピストルをさして歩いているようなものだ。核兵器を背負ってる老人もいる」

明快だなあ。こういう言葉・・・・・・。

 

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