「考える人」2009年夏号(20090801)より

『胎児の世界 人類の生命記憶』(中公新書)

三木茂夫解剖学者、発生学者

      生命誕生から三十数億年。

      混沌の故郷を

      探すような人体発生学。

 

 

ホルマリンの瓶に受胎三十日から四十日あたりまでの小豆粒大の胎児が浮かんでいる。手足はなくて勾玉のような形だ。

発生学を極める解剖学者は悩みが深い。三木の妻は妊娠中だった。長い煩悶の末に瓶から胎児を取り出し、顔を調べるため胴体に埋まった首を切り取る。

顕微鏡に映し出されたのは、エラを持った魚類のような顔だった。それが爬虫類の様相をへて、哺乳類のヒトの顔へと変わっていく。深い緑の林に面した研究室で、三木はヒトの系統発生の壮大な無言劇を見たのである。

三木茂夫の人体発生学は、混沌の故郷を探すような奇妙な懐かしさがある。母体恋情とでもいうか。文章に学者には珍しい情念がこもっていて、文学を読むような実感も催す。

たとえば出産した彼の妻が乳腺炎になったとき、友人の医者からお前が乳を吸い出せと命じられるくだり。昔、・・・・・・初産の私の乳汁を試しに祖母が絞って飲んだ、あのときの自分の乳房から滲み出る、濁った薄い不思議な液体の不気味な感じを、私はまざまざと覚えている。

三木は妻の乳を吸うなり、「体の原形質に溶け込んでいくよう」な液体に驚く。しかし猛然とその口中の乳汁、赤ん坊だけが飲むことを許される白色の血液をはき捨てに流しに走ったのだった。

四半世紀前に書かれた「発生学」の本書は野の一軒家のようだ。今はクローン動物やips細胞が作られ、野は自然科学の一大都市になった。生命誕生から三十数億年、三木の壮大な母体恋情は、受け継がれているだろうか。(村田喜代子)

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