血脈の火」の解説

              村田喜代子

 

昔、ある友人が言ったものだ。

「父とは猛威である・・・・・・・・・」と。

彼の場合、それがどんな意味合いを持つものか、たずねようと思ったが止めた。ただ、ついこないだまで日本には、一軒に一人あて絶対的な人間がいたのである。

父の猛威というと、ただ暴力のみを連想しやすいが、それだけではない。家庭の絶対者は自分の主義に家族を染めて批評を許さない。それのみか自分の運命に一家を巻き込み苦労を共にさせてしまう。父親が猛威をふるうということは、そういうことでもある。『流転の海』の松坂熊吾もまた猛威の人だ。彼は戦後の焼け跡から再起を図り、進駐軍の払い下げ物資の中古車販売に持ち前の手腕を発揮し、見事に立ち直る。しかし、まもなく五十の齢で授かった病弱な息子のために、突如、愛媛の郷里へ帰ることを思い立つと、惜しげもなく事業を片付け妻子を強引に汽車に乗せる。

そうして愛媛県南宇和の故郷にもどった彼は、土地の網元和田茂十を県会議員に立たせようと選挙参謀を引き受けたり、時代の先を見込んでいちはやくダンスホールを建てたりする。だが茂十の病死やヤクザのわうどうの伊佐男の自殺を期に、またしても突如、大阪へもどってやり直す気になる。土地を離れたくないと泣く老母を仕方なく残して、無理やり一家でまた移動するのだ。

むろん熊吾の心には、行動を起こす度に自分の思うところの名目はあるが、はために見ればやはり、家長として運命共同体の家族に独断の猛威をふるっていることに変わりはない.こんな彼の性格は仕事においても因を作り、長年の部下であった井草正之助をみずから去らせてしまうのだ。

また、妻の房江を心底から愛しながらも、

「昼間は聖女の如く、夜は娼婦の如くっちゅうてな、男は自分の女房に内心そういうもんを要求してる。男はそんなもんやで、しかし、そんな女はこの世におらん」

とうそぶいて、妻以外の女に手を出す男なのである。そして過去に自分が囲っていた染乃と米兵の睦まじさに嫉妬し、帰宅するや、ささいなことで癇癪を起こし、腹いせに産後の妻を殴打する。染乃は熊吾がみずから米兵に払い下げた女なのだ。まさに松坂熊吾は猛威の男である。

しかし、この小説の魅力は、そんなく孫の半面の情愛の濃さも鮮やかに描いていることだ。人間の心は淡彩一色ではなく、万華鏡のように様々な面を見せる。く孫は多情多感な人物である。第二部の「地の端」では出先の金沢で不意に妻を思う気持ちが噴出し、宿から宇和町役場へ電話をかけて房江をわざわざ電話口まで連れてこさせ、

「わしはお前が好きじゃ」

と言うのである。そして、もう金輪際お前を殴らないと誓い、だから、

「わしを好きじゃと言え」

と頼むのだ。こんなやんちゃな子供にも似た愛情表現に、妻の房江は度重なる夫の理不尽な暴力を赦さざるをえなくなる。

松坂熊吾は読者に様々な感情を呼び起こさせる人物だ。反感から共感へ。軽蔑から同情へ。憐憫から愛惜へ。腹立つ人間だが、けれど誰もが大なり小なり持っている感情の類似点を示してドキッとさせる。わたくしたちの過去のあの日、あの時の一瞬の感情を、熊吾の苛烈な言動の中に見出すのである。

その意味で、熊吾という男は人間心理の郷愁でもある。私たちの入り組んだ感情図式を提示させるようで、まるで人間の魂のスクラップだ。彼の場合はただ、その感情の振幅が大き過ぎて、変化の仕方が突発的なだけである。

こうのべると忘れられない場面は、『流転の海』第一部で、奇跡のように授かった赤ん坊の伸仁を、彼が天眼鏡で顔から足の裏までくまなく拡大して見つめる情景だ。それから、母乳不足の伸仁のため貴重な粉ミルクを届けに来た男に、宇和の蒲鉾を持たせて深々と頭を下げる姿も貴く印象的である。

そうかと思えば、虚弱な伸仁が脱水症状で乳を受けつけないとき、いきなり出刃包丁を掴んで庭へ飛び降りるや鶏を捕らえて首を切り落とす。鶏の返り血を浴びてわが子に飲ませるためのスープを煮る熊吾は、凄惨で鬼気迫る姿だ。自分の作ったスープは絶対に吐かない。もしそれを吐くならどっちにしても死ぬだろう。そんなやつは早く死ねばよい、と彼は怒鳴るのである。

わが子が死ぬか生きるかの瀬戸際に、やにわに鳥を殺してスープを作ることを思い立つ父はめったにいない。読む進むうちにいつか熊吾の感情がこちらへ注ぎ込み、そうだ、そうだといつのまにか熊吾に共感している自分に気づく。文章という言葉の力が、人間の普通の心理をえぐり出しているからである。

第三部「血脈の火」は、こうした熊吾一家が再び大阪へ帰ってきたところから始まるが、読了後、熊吾の奇妙な行跡が私の頭に浮かび上がってくる。それはどこか同じところをぐるぐる巡っているような感覚だ。たとえば、ちょうど一頭の馬が長い引き棒につながれて、粉引きの臼の周囲を回っている。歩んでも歩んでも目に映るのはどうどう巡りの景色。徒労感にひしがれて馬は頭上の星を見る。無心に星々は光っている。

汚れない馬の目が星の光を映すように、熊吾も広い天空の真下に立ち、この世の人事を載せて回転する自然や、それを包含する宇宙の規律を感じ取らずにはいない。この男は人並み以上の資質をもっているが、世の動きを先から見抜く洞察力、一から事業を起こす経営手腕、向かってくる荒牛を仕込み銃で仕留める豪胆さなどの中で、最も優れた資質はこの「星を見る目」ではないだろうか。

心のおもむくままに生きて財をなし、この齢になって初子を得た。彼は子どもを抱えて星を見る。わが子を持つというのは喜びとは別に、彼のように野放図な男にとって急所を撃たれたも同然である。愛しさはつまりは、不憫さと同義語だ。子供は小さく弱く不憫である。伸仁が二十歳になるまでなんとしても死ねない、と彼は決意する。その日まで伸仁を育てることに使命さえ感じる。か細い初子の誕生で、この父親は大地を回転させ人の世の営みを底から動かしている(おお)きなものの存在を知らされるのである。父に使命があるなら、父にそれを教えた子にも使命があるのだろう。

その巨きなものに対して熊吾が畏敬の念を抱いたなら、いったい彼のその(おのの)きはどこから生じるのだろうか。つながれた馬がハッと気づくと、自分を結わえた紐の先がわが子をも縛している。親子の宿命という(いまし)めである。皮肉なことにも伸仁はだんだん彼に似てき始めた。この父と子の前途には、何か共同の試練が待ち受けている気配がある。

長編『流転の海』は一筋縄ではいかない小説だ。父と子を主題に据えた幹は太く、さらに枝分かれした樹幹も逞しい。熊吾と房江の微妙な葛藤は夫婦という主題に迫り、熊吾の女関係の場面は性愛のテーマを衝いている。また、戦後の闇市で事業の再建をはかる第一部は企業小説の面白さも持ち併せ、第二部の郷里宇和編は極道小説の凄みがある。そして第三部「血脈の火」にいたると、成長していく伸仁をめぐる市井の人々や、第一、第二部で登場した熊吾と房江の周囲の様々な悲喜劇。時代世相にもじゅうぶんに書かれて全体小説の観もある。

本を閉じてわたくしの頭に浮かんでくるのは、ボッスの奇妙に賑やかな絵。そこには沢山の人間が溢れている。しかしよく見ると、どの人間も人間でないような姿だ。鼻が猪のように突き出た男。犬の顔を持った男。卵の殻をかぶった女。そして太鼓腹の両脇に耳をつけた首のない性別不明の人物。

もっとよく見ると、人の形を成さない怪物もうじゃうじゃいる。人間の胴体を備えた蛙。人を背に乗せた馬のような大ネズミ。船の形をした怪魚。中世の闇に浮かれて踊り出た魑魅魍魎の面々だ。神の栄光を描かず、神の不在を歌うマイナスの生命力圏。だが決してヒエロニムス・ボッスは無心論者ではないのである。ただ手放しで神を幻想したり、賛嘆することのできない覚めた目の画家だろう。

『流転の海』三巻すべてを閉じ、次々と浮かぶのは不思議な賑やかさだ。妻子を原爆投下直前の長崎へ疎開させた自責の念を抱きながら、人妻の亜矢子と性的関係を続ける辻堂忠。長年熊吾に私淑しつつも、彼の会社の金を持ち逃げして姿をくらます井原正之助。

熊吾を頼むことで生き、やがて進退窮まって、自分の頭を散弾銃で吹っ飛ばして死ぬわうどうの伊佐男。性的にはだらしないのに、暢気で人のよい妹のタネ。若いときは男運が悪く、老いて古里を恋うて行方知れずになった母ヒサ。戦後の貧窮に熊吾から受けた援助を、逆恨みに変えて報復する三協銀行副頭取の妻亜矢子。得体の知れない点では、どれもこれもボッスの絵にひけをとらない。

だが光明の眩しさを知るためには、闇が必要である。ボッスの絵は闇を描いて神の栄光を退けたが、熊吾の口癖の仏教では人間の醜い餓鬼や修羅の命も、すべては等しく仏界に内包される。それら諸々の境涯を包括して、人の生命は内から強い輝きを放つ。

「私は、自分の父をだしにして、宇宙の闇と秩序をすべての人間の内部から掘り起こそうともくろみ始めたのです」と宮本輝はかってこの作について記した。人間の様々な無明の闇を呑み込んで膨らんだ海がある。それを渡っていく父と子の、この長大な小説は航海記となるのか。それとも多難な漂流記となるのか。それはようやく折り返し点を通過した続編を、切に待ちたいと思う。

(平成十一年八月、作家)

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