「通話音 土田晶子詩集」より

 

受容の人  村田喜代子

 

自分自身からもっとも遠いところでくりかえしている朝の体操

 

土田晶子さんは、毎朝こうやって体操をしている。「NHKラジオ体操第一」でもなければ「福岡県民体操」でもない。そうかといってジャズダンスでもない。とにかく彼女は、えいっ、えいっと体操する。

 

そうやって反復しているうちに形成されるバッテイングフォーム

 

なにごとも繰り返しの成果なのだ。修練のたまものだ。

 

干乾びていく紡錘形の魂。抽象的な肉体から吐かれる生あたたかいことば

 

この体操の思想はずいぶん風変りだ。

 

(ひび)割れていくコルク質の抒情

 

土田さんの体操からわたしが頭に描くのは、白いぴったりした服を身につけたフェンシング姿である。細いよくしなう剣の刃先は先へ先へと遠く標的にむけながら、体だけこちらへこちらへと弓のように引いて……。日本の剣道は派ごと踏み込んでいくけれど、西洋のフェンシングは身を退きながら刃先だけは遠く鋭敏に動かす。シャープだけれど、ぶがわるくはないか。どう見たって体当たりで間合いの中に踏みこんでいくほうが喝采があがるというのに……。

そして、生あたたかい言葉はふつう具体的な肉体から吐かれるはずなのに、彼女の言葉は空虚で抽象的な体から出るという。こうして土田さんはだんだん生ま身から遠くなり、意識とか感性による仮設肉体へと変わっていく。

それでまわりからは、机上派もしくはキョーヨー詩人などといわれるはめになる。それは火を見るよりあきらかなことで 予知の化け物みたいな彼女にわからないはずはないのに やっぱり性懲りなくやっている。

 

自分自身からもっとも遠いところでくりかえしている朝の体操

そうやって反復しているうちに形成されるバッティングフォーム

 

こまった事態だ。土田さんはわたしから見てもかなりの読書家だが、彼女は純粋にたのしみのために本を読んでいるにすぎない。彼女は教養を高めるために、知識を得るためには本は読まないひとである。果物が好きなように花が好きなように本が好きなのである。

周囲がキョーヨーだとおもっていることがらは土田さんの趣向性で趣好性は気質の傾向性で、傾向性のおもむくところで発せられるうた声は自然である。彼女にとっての自然さとはこういうものなのだ。それがまた楽しい。「欠落」という詩は、たわしを探している。あなたが教えた場所にたわしはなかったという。では、どんなたわしかというと、リリシズムのたわしなのである。

遠い体操をするひとはまた抑制の利いたひとで、「日録」や[母」という詩の簡潔さがわたしは好きだ。「日録」の父は少量の朝食を採って日課の散歩に行く人で、ただそれだけしか書かれない。母ときては題名に登場しただけでついに一言も書かれていない。けれどその父でこの詩集ははじまり、その母で詩集頁を閉じるのである。

自分の体験をうたわないひとは、他人の体験にも意味づけをしないひとである。遠い体操をするひとは周囲を受容するひとだ。

斜面恐怖症の友も、大きな声で返事をする友も、自分を咲かせたがっている友も みんな土田さん宛に発信音を鳴らし、「ね、わかる?わたし きいて」としゃべりつづける 彼女はそれらのどの声もきちんとききとどけ了解する。Aさんのは了解してBさんのは納得できない、などということはなくみんな了解する。詩形にとどめるのはもっとも確かな了解のしかただ。

そんなにみんな了解していいのかとおもうが、やっぱり彼女は了解する。だから土田さんの家の電話はいつもなりっぱなしだ。この受容装置の受容の限度量は底が抜けている。だから彼女のまわりのだあーれも彼女のことをよく知らないのだ

みんなで一度この受信機を分解したが、ネジの部位をみてキョーヨーだといい、コイルの部位をとってシュミだとてんでに勝手な承認をしてしまった。それはちがう。ネジはネジでコイルはコイルで部位はどうしても部位である。わかることはただなみはずれた上等な受信機だということである。ときどきわたしは、この受信機が内包する容量不明の生ま身を、こわいとおもうことがある。

      一九八八年一月

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