月刊「群像」2016年5月号より

 

我が身を焦がして

残れる灰の底深く

           坂口 周

 

二〇一一年三月一二日、東日本大震災の翌日に検査を行い、子宮体ガンが発覚する。北九州在住の「わたし」は活火山島である焼島を望む九州最南端の町に短期で移り住み、「四次元ピンポイント」の最新放射線療法を提供するオンコロジー・センターで一か月間の照射を受けることとなった。灰に(くすぶ)る地で、体をすり抜けて悪性腫瘍を攻撃する不思議の光を浴びながら、一方の被災地では同種のエネルギーが恐怖をまき散らす様を見聞きする生活。その状況は、昭和二〇年生まれの作者の記憶には残り得なかった戦火の町並や、原爆の閃光に焼き滅ぼされた想像の情景も引き寄せていく。

かつて作者は、芥川賞作の「鍋の中」が黒澤明によって映像化(『八月の狂詩曲(ラプソディー))された際、原作にない原爆のテーマが説教臭く盛り込まれていたことを皮肉ったが(「ラストで許そう、黒澤明」)、夕立の雷をピカドンと取り違えた祖母の狂い姿は、確実に作者の体内に印象を刻み残したようだ(実際、本作は(ピカ)描写だけでなく、火山噴火ドーンという「稲妻のようなノイズ」や照射室のブザー音など、心身を揺さぶる強い響きが効果的に織り込まれている)・一一以後、その記憶が放射線のイメージに刺激され、いわば後遺症として発現したのである。

神的暴力に、「わたし」は明らかに魅せられている。放射線は、三十年前に死んだ育ての親である祖母をめぐる挿話の中で土俗化した神仏のイメージと溶け合う。「オンコロジー」の語は、病魔を除く薬師如来の真言「おんころころ……」に響き、光線は阿弥陀如来の後光を想起させ、果ては島々に伝わる生殖能力を持つ太陽の民話が差し挟まれ、死の種を孕んだ子宮と放射線の合体が重ねられる。だからといって、生命賛歌の神話の再建をもくろんでいるのとは違う。そんな甘ったるい小説ではない。その証拠に、これらの連想を紡ぎ出していくにつれて、「わたし」の活力は減退し、衰弱していくのだ。

ところで、祖母は作者の過去の小説群をまたいで登場するキープレイヤーなのだが、実は「わたし」の母の伯父の妻という、普通は親族とみなされない、ぎりぎりの血縁しかない。電話でおしゃべりをするガン友達の(はち)(どり)誠も、高校から職場の定年まで半世紀に亘って同じ道を歩んできたという疑似家族的な距離感にいる。「わたし」にとって、この必然にも偶然にも与しない曖昧な関係だけがどうやら信頼に足るらしい。逆に、より身近な存在のはずの夫や不仲な実の娘、または美容院で出会った鍼灸師の筆子さんの懇意も最後は「厭わしく」感じるほどの冷厳さに少し驚く。本作より先に発表された短編の「光線」や「原子海岸」は、同じ主題ながら夫の視線から描かれていた。まず距離を置いてなければ、二重に酷な経験を捌けなかったのかもしれない。だが、今度の長編一人称でX線透視撮影よろしく「わたし」の内面をしたとき写し出されたのは、家族愛や隣人愛の触れられない寒々しく消耗した焼野だった

戦後、関東大震災後に新しく登場した横光利一ら新感覚派は「震災文学」と嘲られた。その前衛的な文体が瓦礫の集積に見えたからだが、新時代の粉々になった現実性を物語(ストーリー)の破壊によって表現する狙いをそこにみるなら、それは三・一一後の文学が安易なカタルシスの提供を拒む態度にも通じるだろう。しかし、後者はもはや小説の視覚的な崩壊には興味を示さない。原発から解き放たれた光は外形を瓦礫と化さずして物語の欺瞞性を灰にしたからだ。容赦のない灰化からしか新たな形の再生は語りえない、その文学の破壊と再生の二律背反の力をとらえること。

その両価性を具現するのは、やはり灰それ自体だろう。放射線は粉に似ている、ガン細胞に粉を振りかけるのだ、とは院長の言葉だ。降灰の町において、この光の粉は灰である(「原子海岸」の夫は妻のガンの消え跡に「焚き火の燃えた後の灰」を見る)。ジャック・デリダが『火ここになき灰』で、「世界全体は無数の生き物の」であり、灰とは存在の徹底的な消滅の記号であるがゆえに「最悪のもの」かつ「天恵」であると語ったように、見えない光線は「わたし」を救済すると同時に蝕み、灰へと帰そうとする。「わたし」は光線に対して通常よりも「感受性」が高いために放射線宿酔(しゅくすい)に苦しむのだが、それは「光の幽霊」に取り憑かれることである。光はガン細胞を殺していくが、同時に「わたし」を宿酔のまどろみ(=夢)に分解し、記憶の底に潜んでいた祖母たち幽霊を引きずり出すことになる。

しかも、焼島の灰は一般のイメージと違って粘着性の汚れを帯び、不快な臭気を放つ黒い灰である。原爆の光がやがて黒い雨に変じて降り注ぐように、原子の白い灰は現実に着地すると黒く膠着してしまう。前作『八幡炎炎記』でも、広島の「血みどろ」の原子雲の醜悪な様が「巨大な腫瘍」と形容されていたように、この焼島のどろどろの底から噴出される「どす黒い液体のような噴煙」は、被災地の海に浮かぶ爛れた火の塊に、そして「わたし」の抱えたガン細胞のイメージに繋がっている。つまり、原子の光は、黒い灰の悪魔じみた増殖力を攻撃する唯一の手段であると同時に元凶であるという循環。「わたし」の治療は、最初から矛盾した闘いを強いられていた。現に、夢の中の祖母たちは焼島の黒い灰の只中の家に現れ、そこに暮らしている。腫瘍を消滅させることは、放射線の刺激によって呼び出した彼女たちの像もろとも光の中へ送り返す作業となるほかない。同じように、ガン細胞の増殖を許す代わりに照射台をロケットの照射台と見立てて、白い光の中に飛翔していった八鳥の幻覚にも最後まで付き合うわけにはいかない。生き残るためには、別れねばならない。昭和二〇年の焦土に生誕した「わたし」は、再びたった一人で焼野に降り立つ。その峻厳さにおいて小説は再生を語りうるのだ。

(朝日新聞出版刊・税別定価一六〇〇円)

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