20150301毎日新聞より

今週の本棚

持田叙子・評 『八幡炎炎記』=村田喜代子・著

  昭和二十年代の鉄の町の叙事詩

 すぐれた作家はその内奥に、日常の自分とは全く異なる誰かを棲(す)まわせている。

これを書きたいという志と情熱が合致して炎上する時、奥の奥からその誰かが現れて、能弁に艶やかに突き放して語り出す。

 村田喜代子は特に、そうした資質の濃い作家だと思う。今回のこの作品はまるで−−いにしえの琵琶法師がものがたる壮烈な叙事詩のようだ。美しくて哀(かな)しくて、そして歴史性につながる冷徹と残酷を湛(たた)える。

 小説は、昭和二十年八月六日「広島に落ちた原子爆弾」の炎熱から始まる。すさまじい。

 「路面電車は炎を上げて燃えながら惰性でそのままとろとろと進み続け、黒焦げになった 乗客が吊革(つりかわ)を掴(つか)んで立ったまま運ばれていった」

 この猛火をからくも逃れた瀬高克美という男。この男が小説の一つの眼となる。彼は世話になった親方の妻を寝取り、北九州へ駆け落ちし、命拾いした。親方は広島で焼死した。

 罪の意識で彼は火から離れられない。東洋一を誇る八幡製鐵(せいてつ)所の町に流れつき店をかまえ、大溶鉱炉の炎をながめて暮らす。

 山がある。海がある。鉄の町がある。昭和二十年から二十七年まで。戦前そして戦後の日本を支えた炎炎(えんえん)たる八幡製鐵所。鉄の町に人が集まる。必死に荒々しく生きる。その群像を描く。

 克美の営む「テーラー瀬高」が核点で、そのまわりに多彩な人間模様がちりばめられる 。

 克美と妻のミツ江。ミツ江の姉のサトとトミ江。この「呪術的な三姉妹」は、しじゅう山中の滝や寺へ願掛けにゆく。男手ひとつで下宿屋を切りまわす辰蔵。在日の李少年、製鐵所の職工。テーラーに出入りする権力ある男たちと、その妻や妾(めかけ)。

 善悪をこえた原爆という「事実」を視(み)てしまった克美は、無常の想(おも)いがつよい。この世で彼を魅惑するのは、女だけ。この無口で陰気な仕立屋は実は、好色一代男なのである。

 婦人服の採寸中に彼が、客の妻の繊細な骨と肌を指でなぞり、ひそかに恥骨を目で「陵辱」する場面は白眉(はくび)。作者は前作の『屋根屋』以来、職人気質の無愛想な男の秘めたる原始のエロスを描き、新たな官能性でぞくぞくさせ る。

 そこは読んでのお楽しみ。この人妻とも密通し、克美は鉄の町の男の烈(はげ)しい制裁を受ける。因果応報、親方を裏切った罪か。彼は静かにあきらめる。無常と煩悩を知る眼が光る。

 小説のもう一つの眼は、いきいきした痩せっぽちの女の子、ヒナ子の眼。終戦の年に生まれたヒナ子は複雑な事情で、祖母サトの娘として育つ。でもそんな子は、この町にたくさんいる。

 どうやらヒナ子は作者の自伝的分身らしい。可愛い。ちびまる子ちゃんにちょっと似ている。辰蔵のくれるクリスマスケーキに狂喜し、テンプルちゃんの服にあこがれ、机がほしいと大泣きする。男の子と探検に夢中になる。

 「地球がまだしんしんと冷えていた」昭和二十年代。ヒナ子も友だちの 良正や緑やタマエも、寒さ暑さに耐え、大人の理不尽に耐える頑丈でけなげな子どもたちだ。「鶏の骨みたいなちいちゃい手」で薪(まき)を割り、風呂を焚(た)き、家を手伝う。小さな事によく笑う。

 過去に沈む大人の眼。前へひらく子どもの眼。二つの眼がよく働く。考えれば小説の実時間は七年きりなのに、八幡製鐵所の創業から未来、原子爆弾投下と戦後、さらに大きくは地球上の火と人間の関わりと、壮大な歴史絵巻を広げたよう。読後ははるか悠久に遊んだ陶然、茫然(ぼうぜん)の感あり。

inserted by FC2 system