20140824毎日新聞より

湯川豊評

屋根屋   村田喜代子著 (講談社・1728円)

 

夢に物語の道筋つけ、別世界へ

 

ちょっと類例を見ないような、楽しい小説である。どういうふうに楽しいのか、伝えるのが難しいけれど。

雨漏りがするので、屋根屋を頼んだ。やってきたのは永瀬という屋根屋で、六十代半ばのがっしりした男。身長百八十センチ以上、禿げ頭にタオルの鉢巻という姿で、「屋根ごと担ぎ上げそうな男」である。

依頼した「私」は四十代の専業主婦、夫は建設会社勤め、高一の息子が一人。「私」は永瀬屋根屋の、屋根に関するただならぬ蘊蓄をきくうちに、引きずられるように屋根というものの面白さに惹かれてゆく。ところが永瀬屋根屋は、とんでもない超能力の持ち主であることがわかる。夢の専門家で、好きな夢を見ることができるし、他人の、たとえば「私」の夢の中に入ってきて、一緒に夢を体験することができる。十数年前に妻をがんで亡くし、ショックで心療内科に通うようになり、やがて夢をコントロールできる超能力を身につけたらしい。

そして「私」に夢の訓練をほどこし、最初は住んでいる北九州市に近い福岡の寺、次いで奈良の瑞花院を夢の中で「私」と一緒に訪ねる。なぜ瑞花院かといえば、この寺の屋根をふいた瓦師は寿三郎といい、瓦に自分が何者であるか書いているのが見つかっている。それが面白いからだ。「私」と永瀬は夜の寺の屋根に飛んでいって遊ぶのだが、そこにオレンジ色の火の玉のお化けが出てきたりする。永瀬の死んだ女房らしい。

というふうに書くと、これは要するに「大人の童話」なんだな、と思われそうである。しかし私はそうは言いたくない。小説家のしたたかな想像力が大人の夢の話に物語の道筋をつけて、別世界を見させてくれるのだ。それがこの小説の楽しさの核心にある。それを可能にするのは、村田喜代子氏に特有の変幻自在の文章力であろう。たとえば永瀬屋根屋の語る履歴を聞いて、「私」は思う。

《日暮れのさびしい坂道を、夕日がころころとどこまでも落ちていくような話である》

こういう文章が二人で見る夢や、いや「私」が見る夢に永瀬が入ってきて遊ぶ場面を、そのまま読者にも現実のように体験させてくるのである。

二人の夜の夢はさらに高じて、フランスに行ってノートルダム寺院、シャルトル、アミアンなどの大聖堂に遊ぶことになる。パリに着いたところから始まる夢の旅は、「私」と永瀬どっちのものか分明でなくなるのだが、夕暮れのノートルダム寺院の尖塔あたりを蝙蝠のように飛ぶ二人は美しい。

二人が黒鳥になってシャルトル大聖堂に遊んだとき、永瀬は「ここでずっと暮らさんですか」とトツトツとした九州弁で「私」を口説いた。しかし、「私」はその魅力的な誘いをふり切って応じず、自宅の寝床の中で朝、目を覚ますことで、無事帰国する。このあたり、さらには帰国後になお続く二人のつきあいでは、夢と現実の境界がとれて入りまじり、不思議なことにそれにしたがって世界が切ないものになっていく。しかし、二人の夢物語の結末は書かないでおこう。

永瀬の口説きを受け入れて夢の中に残ったとしたら、二人はどうなるのだろう。そう考えると、夢に生きる永瀬という存在の無限の寂しさが迫ってくる。村田喜代子氏は、夢の中、屋根の上でさんざんに遊びながら、「私」の側にではなく、永瀬の側にいるのだ。永瀬の無限の寂しさは著者ものでもあることが、この小説に深い奥行きをもたらしている。

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