201407「新潮」より

 想像力を遠くまで飛ばすこと   松永美穂

  『屋根屋』村田喜代子

 

屋根の下に住んではいても、屋根そのものに思いを馳せることはこれまでなかった、と本書を読んで気がついた。屋根が家のてっぺんについているのは当たり前(と、ほとんどの人が思っていることだろう)。雨漏りでもしないかぎり、屋根を意識することもない。屋根に取りつけたソーラーパネルの具合を気にするのが関の山だ。

屋根の下にることは多くても、屋根を見下ろす経験はなかなかできないのかもしれない(集合住宅の高層階に住んでいる人はもちろん別だけれど)。でも、ある場所をGoogleで検索してみれば、その場所を空から見下ろした写真が画面に浮かび上がるだろう。たとえば自分が住んでいる通りを検索すると、道の左右は屋根によって埋め尽くされており、路上から見た時とは様相が全く違う。俯瞰する視点を獲得すると、世界は違って見えてくる。昨年東京で、ドイツの写真家アンドレアス・グルスキーの展覧会が開かれて話題になった。巨大なパノラマ写真に映っていたのは、飛行機から見下ろした海と島っだたり、工場や家畜市場や巨大なスーパーマーケットで、柵や棚が折り重なるように反復される光景だった。現代では、人類共有の目となった衛星のカメラから撮影された画像が、地表のすべてをカバーしている。少なくともGoogle Earthはそんな印象を与える。パソコンさえあれば、地上のあらゆるものを俯瞰することができる時代になったのだ。

もちろん、高所からのまなざしを手に入れることと、実際に高所に上がってみるのは、全く別の経験である。『屋根屋』には、屋根専門の工務店を営む男性と、雨漏りの修理を彼に依頼する専業主婦が登場する。屋根屋は朴訥な男やもめ、専業主婦には高校生の息子が一人いる。特に不自由のない暮らしを送っている主婦は、屋根屋と出会って会話するうちに、彼の影響を受け、屋根フェチ(!)に変化していく。さらに、彼から建物の屋根を見るために(そして、そこに降り立つために)、夜ごとに夢の中で遠出するようになる……。

この小説のテーマは「夢」と「飛翔」。さらには、一見地味な「屋根」なるものの奥深さについて。架空の建物も出てくるが、歴史的建造物が次々に挙げられるので、すっかり刺激されてそれらの建物の画像をググらずにはいられなくなった。大堂の行基葺の屋根の

形が美しい大分の富貴寺。薬師堂の屋根が柿葺きの高知の豊楽寺。奈良(橿原)の瑞花院吉楽寺。世界文化遺産の醍醐寺の五重塔。パリのノートルダム寺院。ランスの大聖堂。画像を見て思わず納得する、錚々たる建物、錚々たる屋根たちなのである。

《「私も見てみたいわ」

思わず言った。

「というより、その屋根に上がってみたい……」》

ググってみるだけなら、家から一歩も出る必要はない。だが、『屋根屋』の語り手である主婦は、「屋根に上がる」という願望に取りつかれる。

《屋根は山に似ている。見上げると登頂したくなる。》

畝修理のプロにでもならないかぎり、かなえられないの望みではある。主婦は夢の中で、登頂へのアタックを始める。屋根屋はその際、格好のガイドとなる。屋根の建築様式にまつわる解説はもとより、屋根瓦に自分のサインや落書きを残した瓦師の話もしてくれる。数百年の昔、自分の名前や年齢だけでなく、その日の出来事を気の向くままにヘラで瓦に書きつけた瓦師の話は興味深い。さらには町の美人を名指しする、謎の僧の落書きの話も出てくる。往年の大工が、後世に残したメッセージ(しかもこれらのエピソードが、効果的な伏線であったことが最後にわかる)。瓦が一種のタイムカプセルの役割を果たしていたわけだが、そういえばエジプトのピラミッドの内壁にも、建設当時の落書きが残されていたらしい。

屋根に関する蘊蓄だけならば、小説としては盛り上がりに欠けるが、本書では屋根屋と主婦の間に男女の駆け引きがあり、一線を超えるのかどうか、読者をハラハラさせる部分がある。「夢を見る」「旅に出る」「空を飛ぶ」「屋根に上がる」という行為は、すべて日常からの遁走といえるだろう。夫婦仲に不満があるわけではなく、友人とヨーロッパ旅行すらできてしまうこの主婦は、自由でのんびりしているかに見えて、やはり相応の束縛を感じながら生きている、ということなのだろうか。小説の終わり近くに彼女がとる大胆な行動は、彼女の生活を崩壊させかねない大きなリスクを孕んでいる。

この小説を読んで、10年ほど前にアカデミー賞の外国語映画賞を受賞した「海を飛ぶ夢』という映画を思い出した。アレハンドロ・アマネーバル監督の作品で、ハビエル・バルデムの主演。バルデムが、若いころは船乗りとして世界中を旅したけれど、今は首から下が不自由になっていしまった男性を演じていた。彼にはもう、夢で空を飛ぶことしかできない。空想の中で窓から飛び出し、海へと飛んでいくシーンは非常に印象的だった。それは、映画の最後を暗示する、魂が飛んでいく瞬間にも見えた。

十六世紀にヨーロッパで多数の読者を得た、民衆本の『ファウスト』も思い浮かぶ。二百年後にゲーテが大幅に手を入れて、科学と政治の野望がぶつかり合う一大スペクタクル劇として生まれ変わるが、民衆本では悪魔と契約したファウストが天上に昇ったり、地獄を探索したり、星々のあいだを巡ったり、さらには当時のヨーロッパ人にとっての「世界」の果てである、ウラル山脈やインド辺りを空中から一望したりする。自由な旅行など思いもよらなかった当時の民衆に代わって、ファウストが時空間を自由に移動し、最後には神からその好奇心と思い上がりを罰せられる。キリスト教の規範に縛られた当時の読者の心を乗せるひと時の乗り物として、ファウストの身体があったのだ。

想像力を遠くまで飛ばすことが文学の特性の一つだとすれば、村田喜代子はその達人だといえるだろう。『蕨野行』では姥捨ての老人たちの転生に思いを馳せ、『百年佳約』では朝鮮から九州に連行された陶工たちの代々にわたる営みを展望し、『ドンナ・マサヨの悪魔』では生物の進化の歴史を概観していた。本書に登場する主婦は、ヨーロッパから日本まで、ユーラシア大陸の上を飛び、ゴビ砂漠やヒマラヤ連峰を遥かに見渡している。屋根の上でずれた瓦が、こんな大きな話につながっていくのである。

(講談社刊・一六〇〇円)

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