20140607「文学界」20147月号より

「屋根屋」村田喜代子

屋根からはじまる夢の世界    峰飼耳

 

空を飛ぶことへの願望、と書いたら、なにをいまさら、という笑う読者もいるだろう。けれど、これは人間にとって根が深い欲求だ。ここではないどこかへの憧憬、現在や現状を厭う逃避願望。それと、眠っているあいだに見る夢という、これもまた得体の知れない世界がするすると結びついた先に出現した小説。村田喜代子の『屋根屋』はそういう作品だ。夢の世界が大胆に使われ、小説だからこそ可能となる、もう一つの日常とでも呼びたい時間が描き出されている。

屋根が頭上にあることが当たり前になっていると、普段は、そのありがたみをほとんど実感しない人が多いのではないだろうか。屋根に守られて暮らしているのだ、と改めて意識するのは、そこに不具合が生じたとき。私にも、雨漏りの経験がある。雨漏りは困る。この小説の主人公は、四十代の主婦・みのり。ゴルフを趣味とする会社勤めの夫と、高校生の息子と三人で暮らす。平穏な日常生活。あるとき、天井の雨漏りを見つけて、屋根屋に修理を頼むことになる。

瓦を踏んで歩き、屋根で過ごす時間を積み重ねていく人生とは、どんなものだろう。あちこちの屋根から見渡す景色は、どんなだろう。二人は、午後のおやつの時間など、屋根の修理の合間に交わす会話から、少しずつ打ち解けていく。十年以上前に妻を病気で亡くした屋根屋の永瀬は、どこかひっそりしていて、孤独を感じさせる男。個人営業の職人の仕事で生きてきた苦労もにじませる。

永瀬は、見たい夢を自在に見ることができるという。神経症の治療として夢日記をつけることを医者から勧められ、もう十年もそれを習慣としているという。夢を見ること、夢に見ることで、問題を解決したり心が軽くなったりすることがあるのだと教えられ、みのりは、それまで深くは気にとめていなかった夢というものに興味を抱く。「彼の話によるならば人間が一日ニ時間、夢の中にいるとして一年で七百三十時間である。私は電卓を取ってきた。八十年生きたとして五万八千四百時間になる。それを換算すると実に六年間以上も夢を見続けていることになる」。

夢の見方にもコツのようなものがあって、訓練すれば見たいように見られるようになると、みのりは知らされる。二人は、夢の中で会う時間を重ねていく。そう書けば当然、恋人の関係に聞こえるかもしれない。けれど、そうではなく、ただ一緒にいろいろな場所の屋根を見物するだけなのだ。つかず離れず、夢の中で共に過ごす時間の心地よさを愉しむ。「時は休みなく流れ続け、私たちの日々も移り変わっていくのだけれど、しかし私と屋根屋が一緒に見続ける特別な夢は、毎回、元の所へ戻っていかねばならない」。夢の続きを、別の日に見ること。連続夢。二人が見ているのは、そういう夢だ。屋根に生きる人が、屋根に慣れない人を連れ出し、特別な体験をさせていく。永瀬とみのりの関係はそういうものだ。

フランスの、ゴシック様式による教会建築のさまざまな塔や屋根。ノートルダム大聖堂やアミアン大聖堂。「西洋人の天国熱というのは何でしょうな。どうしてそんなに天へ昇りたがるんだろう」「日本人は西方熱ね」「サイホウ?」「ふふ。西方浄土熱」。永瀬によると、日本の寺院建築の屋根は、死を感じさせる場所だという。「五重塔などの屋根に登るとわかりますたい。あそこにはもう生は無うて、寂寞とした死が載っています」。夢の中で、空を飛び、二人はさまざまな屋根の造りを堪能する。空中からしか知りえない屋根の味があるのだ。屋根という場所は、地上から浮き上がっていて、日常の煩わしさを俯瞰することで軽くする場かもしれない。

小説だから、作中の現実と夢を、同じ次元で扱うことが可能となる。というより、そのように読まなければ、この作品での夢の時間は小説の部分として機能しない。実りの中に混乱が生じる。「連続夢を見ていると、その朝と昼と夜の流れに、夢の中の朝と昼と夜が割り込んでくる。私は常に今、自分の眼に映っているものが、本物の時間に乗っているものか、就寝中の数分間、あるいはもう少し長い夢の中のものか、しょっちゅう自問自答する」。ここで、絶妙なたとえが記される。「夢は永久に煮えない肉だ」。夢は、いつでも生煮え。いつでも半端なもの。はじまりも終わりもない、手に負えないもの。それなのに、仮に八十年生きるとしたら人生のうちの六年間を占めるほどのもの。改めてそう考えると、なんだか恐くなる。

過去に生きた職人たちが屋根に残した落書きについての記述がおもしろく、心惹かれる。京都の醍醐寺の五重塔の屋根には、三位昌深の字。この人は真言宗の僧だが、思いこがれた娘の名を塔の屋根に記す。奈良の瑞花院の屋根に言葉を残したのは、瓦大工の寿三郎。仕事をしたときの年齢などを記す。法隆寺の五重塔の屋根にも、誰が書いたものかわからない墨の字が薄く残っているという。内容は、飛鳥時代の歌。大工の悪戯書きらしい。「人間というものは、壮大というか、壮麗というか、大きな建築物に向き合うと、我が身の小ささを、否が応でも思い知らせされるとでしょうな。それで何か書き付けてしまいとうなる」と、永瀬は感想を口にする。職人たちが、生きて、仕事をした記念の落書き。生の痕跡のぬくもりは、遠い時代の人にも届く。

屋根という場は、日常とそこからはみ出す時間との境界なのだ。夢の中で屋根から飛び降り、空を飛ぶ。夢でつかのま誰かと会い、また生きる時間が、日常が、おのずと励まされていく。この小説は、人間の意識の底にある願望やイメージを用いて、受け手の心を揺さぶる。夢の中で空を飛ぶというと、どことなく甘い空想的なイメージを引き寄せるかもしれない。けれど、この小説は、むしろそこを逆手にとって既成のイメージに挑戦するものでもあるのだ。屋根と空との境から滴り落ちたような世界。夢と現実、日常と非日常という区分が崩れて、生まれ変わる。

(講談社刊・一六〇〇円)

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