週刊朝日201382日号より

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「人外」の地から届く確かな自分の言葉  評者 姜信子 作家

「ゆうじょこう」

村田喜代子        新潮社 一八〇〇円

 

 

読み終えて、ふっと想い起こした歌ひとつ。

“花岡山から二本木見れば、焦がれて何としょ 金は無かしま(中島)家も質(茂七)東雲(しののめ)のストライキ さいと(斉藤)は辛いね てなことおっしゃいましたかね”

明治三十三年、熊本・二本木の東雲楼の娼妓たちが人間らしい扱いを求めて起こしたストライキを題材に、路上の演歌師が蛮声をはりあげて歌った「東雲節」だ。この歌が後世に伝えるのは楼主中島茂七と番頭斉藤の名のみだが、東雲ストライキに想いを得て村田喜代子が紡ぎだした女たちの物語は、人が人であるために大切な何かを語って、しんしんと、切なさと温かさと愛しさが胸に降り積む。

主人公は硫黄島から東雲楼に売られてきた海女の娘、イチ。このまだあどけない少女が、実に見事な体を持っているのである。娼妓にふさわしい官能的な体、ということではない。イチの体は、海に育まれ、厳しい自然に鍛えられ、あらゆる命と声を交わす野生の体。生きるということの本当を叩き込まれた体。その体は、郭という閉ざされた世界を支える一つ一つの理屈に違和を覚える。

たとえば、廓の女王・花魁東雲太夫が、客との時間の他は、「誰のものでもない、自分の体」「娼妓ほど自由なおなごはいない」と言い、苦労にまみれたイチの母親のことを「牛馬と、どこが違うている?」と言えば、

違ごっ!(ちがう)

心の中で、いつまでも抜けぬ島の言葉で、イチは叫ぶ。あるいは、心と体を切り離して、美しい嘘でくるんだ廓の女と男の関係に、

すらごっ!(虚言)

殴られても、諭されても、イチは身にまとわりつく居心地悪い違和感を手放さない。違和感を問いに変え、廓の学校「女紅場(じょこうば)」に通っては、日記に書く。問うて考えては書き、書いては考える。言うこと聞かぬなら、畳の上で死ねぬと楼主に脅され、イチが書く言葉は、「ちごっ たたみの 上では しにませぬ あたいは なみの上で しにまする」。

そんな考える体を持つ少女が、「人外(にんがい)」の地と言われ、女性器ばかりが崇められ、床技だけが磨き上げられる郭という世界に紛れ込んだのだ。しかも、面白いことに、イチの体がおのずと放つ問い、イチの体から溢れ出る言葉は「人外」の地に生きる女たちの身と心を、さざ波のように静かに揺さぶるのである。

イチに書くことを教えた女紅場の教師・鐡子(てつこ)は氏族の出。御一新後に落ちぶれた家のために身を売り、その誇り高さゆえに廓では疎まれ、その教養ゆえに女紅場に雇われた。

鐡子は娼妓たちに真っ先に太陽という字を教える。人の世は移ろえど、太陽は移ろわぬ、太陽はただ恵みの光を注ぐのだと。でも、イチの体は、直感的に、とうにそんなことは知っている。それを言い表す言葉を持たなかっただけ。書くことによって、イチは確かな自分の言葉を手にしてゆくのだ。

イチの言葉には芯がある。力がある。女紅場の教師鐡子と廓の女王・花魁東雲。この対極の二人を、イチはわれ知らず結びつけてゆく。廓の女王東雲も徐々に変わってゆく。いかに崇められようとも嘘は嘘、人外の地に人間の本当はないのだと。

廓では病で死ぬ女がいた。殺される女もいた。子を産んで、人外の世界を去った花魁紫太夫のような女もいた。イチは男に愛されるということの意味を考えるようになった。親に売られて食い殺されるわが身を思うようになった。廓から逃げる女たちの数は増えるばかり。そして、ついに、東雲楼ストライキ。女たちは旅立ち、いったん物語は閉じられる。

さて、ここから先はわれらの物語である。もしや、今もなお、われらは嘘の世界にとらわれてやしないか? われらは自分の言葉を持っているか? そんな問いを胸に、イチたちの行方を想う私は、おのれの生き方を想う私でもあるようなのだ。

 

きょう・のぶこ=1961年、神奈川県生まれ。著書に『はじまれ━犀の角問わず語り』(サウダージ・ブックス+港の人)、訳書に『あなたたちの天国』(みすず書房)など。

 

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