20130616讀賣新聞より

ゆうじょこう  村田喜代子著  新潮社 1800円

若い遊女の思考を核に     評 松山 巌(評論家・作家)

 

舞台は明治三十六年五月の熊本の遊郭東雲楼。そこへさらに南方の硫黄島から、親の借金のため十五歳の少女が、娼妓として働きにくる。名は青井イチ。彼女は海に暮らし、満足に教育を受けていない。他の少女たちも同様。そこでイチたちは揃って学校に通い始める。

本編はこう始まるが、なぜ娼妓が学校にと疑問に思うかもしれない。実はこの二十世紀初頭に布かれた廃娼令が関係する。政府が西欧への体面から人身売買を建前上は禁止し、娼妓にも教育を受けさせるように命じたからだ。

本編の表題は「ゆうじょこう」。なぜ平仮名なのか。漢字に直せば遊女考。しかし本書は小説であり遊女論ではない。しかも十三章に分かれ、章題の大半は平仮名。これは作者の仕掛けである。イチは作文を習い、漢字も少しずつ覚え、書く楽しみを知る。つまり章題はすべては彼女の作文の一説からである。イチは見たこと考えたことを島の訛りで話し、書くから、作文は可笑しくも哀れなわらべ唄を思わせる日記となる。作者は自然児イチの文を核にして、一人の遊女の思考そのものを描こうとした。だから表題は〈ゆうじょ考〉ではないか。

イチは廓で多くを学ぶ。男女の身体の違い、性愛の技、世の中の仕組み、人の嫉妬、金銭の厳しさ・・・・・・。同時に士族の娘ながら廓にもいた学校の師匠(先生)からは男女平等などの思想も習う。だがイチにはピンとこない。なぜなら自然児の彼女には、蟻も海亀も牛も馬も、生きているものすべて友だちだからだ。これが作者の本編の真の意図だ。物語は最後、救世軍などの廃娼運動が盛り上がり、イチを含め娼妓が力を合わせ、東雲楼を脱出する展開で終る。その後のイチたちの行方もわからぬままに。

しかし作者は筋よりイチの考え方を取り出し、人が人と共に生き、自然の中で生きる大切さ、いつの世でも当たり前の素朴な考え方を、改めて読者に喚起させたかったに違いない。

 

 

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