新潮20137月号より

  ひらがなから聴こえる

からだのこえ      小池昌代

「ゆうじょこう」 ━村田喜代子

 

「遊女考」でなく「ゆうじょこう」。目次にも、そして本文中の「日記」にも、ひらがなで綴られた鹿児島弁が並ぶ。方言だから意味がとりにくい。その横に、「ルビ」として付されたのが漢字混じりの標準語。ここに本書の特色がある。

主人公は、薩摩・硫黄島で生まれた少女イチ。十五の歳、親から身売りされ、熊本の遊郭・東雲楼へやってきた。故郷の青い海では、大きな海亀やイルカと泳いだものだった。けれどここでは、「小鹿」という源氏名をもらい、遊女のなかでもっとも格の高い、花魁・東雲さんの部屋子となる。

東雲さんについて、作者は作中で「女天皇」とか「女性器の女王」などと書いているが、今で言えば、壇蜜か。自らの職業に徹した美しさがあり、ずるさや汚らしさは感じられない。成熟していて、同時にその地位に相応しく、ものごとを高処(大局)から見る聖的な視点を兼ね備えている。彼女は職業としてのエロスをイチに伝授するが、イチはどこまでいっても幼い山猿。鹿児島訛りがついに抜けない。いや、抜けないその訛りにこそ、イチのイチたる存在理由がある。

東雲楼についてすぐの少女たちに、楼主・羽島茂平は、自らいきなりの「身体検分」を行う。結果、このイチ、かなりの上玉と判別されたように読めるのだが、その後、彼女はその身体を武器に、売れっ子遊女として出世する、という展開にはならない。この小説では、彼女のエロスを体現するのは、その身体ではなく、「言葉」である。

遊女たちから「言葉」を引き出し、「文字」を教えるのは、娼妓の学校「女紅場(じょこうば)」のお師匠さん、赤江(あかえ)鐡子(てつこ)。元は旗本の娘だったらしいが,落ちぶれて遊女に。やがて年季が明け、帳場で働いているところを拾われて先生になった。この人、福沢諭吉の言説を適正に批判するなど、学問があって言葉を持つ。後に遊女たちが起こした行動の源には、この人の存在、つまり「教育」があったというべきだろう。

イチはやがて日記を綴るようになるが、冒頭にも書いたように、それはひらがなで記述されたルビ付きの鹿児島弁。ひらがなばかりというのは、なにしろ読みにくいし、最初は作為的にも感じられた。しかしこのたどたどしい言葉が、次第に身になじんでくると、確かにそこからイチの肉声が聞こえてくる。つくづく、本書の柱は、この日記だと思われ、その他、地の文は、すべて肉声に振られた「ルビ」にすぎないのではないかと思えてきた。

遊女を扱った物語というと、おそらくたいていは、その身体の悲劇性が中心に据えられてきたのではないだろうか。ひどい楼主や身勝手な親、非人間的な労働環境。しかし本書では、そういうものに力点が置かれていない。また、遊郭という特異な空間への興味をかけたてる描写や、興奮を呼ぶ性描写があるというわけでもない。とはいえ、イチ=小鹿が、いつ、どのように女になるのかは、わたしにはやはり、気になるところだった。ところがこの小説では、さらりといく。「痛て。痛て」と涙流すも、どこか定まった絵を見るようだ。越えた後では、何か変化も生じるだろうと、わたしなどは思うのだが、かの「たけくらべ」の美登利のように、女の変容を見せるわけでもない。イチは変わらず山猿である。そしてそのイチの連続性を、しっかりと支え、証明しているのも、連綿と繋がるひらがなによる日記、つまり「言葉」だ。

時代は明治末期だろう。具体的な地名は記されていないが、最後まで読むと、いくつかの史実が踏まえられていることがわかる。熊本・二本木には、実際、明治期に東雲楼という遊郭があり、明治三十三年には、小説に描かれたとおり、その東雲楼を舞台として、娼妓たちの「ストライキ」が起きている。本書でも、最後は、花魁・東雲も仲間に加わり、理不尽な労働条件に異を唱えながら、総勢、三十五名(これは東雲楼の娼妓の半数近く)が、決然と廓を出ていくのである。

読みながら、わたしたちは、日本の売春史の一端を知ることにもなる。たとえば明治五年には、「娼妓解放令」、別名「牛馬切りほどき令」なる法令が出ているが(牛馬とは遊女のこと)、これはまったく形ばかりで、警察は遊郭の味方、頼りにはならなかったようだ。だいたい、この法令自体、当事者である遊女たちに広く知らされていなかったらしい。その後、「娼妓取締規則」というのが明治三十三年に発布され、段々と、娼妓の自由廃業が認められていったようだが、この小説を、そんな過渡期にある遊女たちが、言葉を通して意識改革に目覚め、自らを開放するに至った物語━というふうにまとめてしまうと、全然、面白くないのである。

すっかり開放されたはずの平成の世では、自分の意志で身体を売る女性がいて、買う男性がいる。性は一大産業となり、法の規制が厳しくなっても「売春」がなくなるということはおそらく、ない。そして売春イコール女性の人権無視という論理は、もはや全然、説得力を持たず、現実的でもない。そういう所に、わたしたちは立っている。

それよりわたしが面白かったのは、東雲さんとイチの間の、紅絹をめぐる一件である(紅絹とは月経の隠語)。二人は、妊娠して廓を出た花魁・紫さんを一緒に訪ねるにあたり、一緒に仕事を休む必要があった。つまり一緒に月経になる必要があった。一緒にいると伝染るから大丈夫だ、という言葉のとおり、時を同じくして月経となったのも愉快だったが、東雲さんがイチに伝授した、月経血コントロールの術は、わたしには、たいへん興味深かった。参考文献としてあげられている、三砂ちづる著『昔の女性はできていた』(宝島社)を、わたしは本書で初めて知ったが、そこにはこのことが詳しく紹介されている。昔の女性の中には、経血の流出を身体でコントロールできていた人がいて、しくじる前にトイレへ行き、血を流していたため、下着を汚すこともなかったというのだ(ちなみに三砂さんには『赤ちゃんにおむつはいらない』という著書もある)。

遊女というと、決まってスキャンダラスな「初店(見世)」とか「初穂下ろし」などが描かれてきたが、現代の読者にとっては、月経血がコントロールできるなんてことのほうが、衝撃が大きい。

(新潮社刊・一八九〇円)

 

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