文學界20137月号 文學界図書室 より

「ゆうじょこう」               遊女と言葉と身体性

 村田喜代子                           田中和生

 

 

さりげないやり方だが、題名がよく作品のあり方を示している。

まずそのひらがなだけの題名をぼんやり眺めてみる。すると「ゆうじょ」はたぶん「遊女」だろ、でも「こう」は「考」かもしれないし「行」かもしれない。だけど小説だったらやはり「遊女行」かなあ、などと思う。つまり意味ははっきりしないが、しなやかな字面だけが存在感を主張している。この作品が主人公として追っていくのは、そんなしなやかな身体をもち、鹿児島県南部にある漁師と海女が慎ましく暮らす硫黄島に生まれて十五歳で遊女として売られ、九州でもっとも栄える熊本県にある遊郭の格式高い娼楼にやってきたばかりの少女「青井イチ」である。

舞台は日本の近代黎明期の明治で、遊郭は時代の混乱と矛盾を象徴する場所である。たとえば「小鹿」という源氏名を与えられる「イチ」が買われた娼楼「東雲楼」を経営しているのは、大阪の米相場で大もうけしている「羽島茂平」という五十過ぎくらいの男だが、それは江戸時代の商人がそのまま近代の資本主義社会に適応したような存在である。一方まだ遊女見習いの「イチ」が通うことになる、遊郭で働く女性たちに必要な教育を与える学校「女紅場」で働いているのは「赤江鐡子」という四十代半ばの女性で、彼女は明治時代に入って零落した旗本の娘である。豊かな教養と才気をもちながら遊女となり、年季奉公を終えたが遊郭以外で行くところもなく、そこで先生をしている。

そうして近代という時代の変化が遊郭に陰影を与えているが、遊女のあり方はそれほどかつてと変わらない。売られてくる理由は貧困で、九州全域から訛りの抜けない少女たちが楼主によってあつめられてくる。「茂平」は東京の吉原、京都の島原から実力ある遊女を引き抜いて娼楼の格式を維持しているが、まともな口もきけない「イチ」が見習いとして同じ部屋に入れられるのは、その名を冠する「東雲楼」一番の売れっ子である花魁「東雲さん」である。

適度に距離のある三人称による記述で、作者はその「イチ」が見習いから遊女としての仕事をはじめ、遊女らしい振る舞いができるようになるまでの一年半ほどの出来事を描く。それはいわば時代に翻弄された一人の女性を描き出すことだが、その言葉に緊張感を与えて物語を導いていくのは二つの力である。まず一つ目は、南の島の訛りで「こけー、こー(ここへ来い)」「けー、こー(これを食え)」といったニワトリが鳴くような話し方しかできなかった「イチ」を、「~でありんす」という口調で話す「東雲さん」がそうであるような男に幻想を抱かせる花魁にしようとする力である。もちろん花魁は莫大なお金が動く存在であり、遊女自身だけでなく周囲で働く人間や娼楼をまるごとささえるような力をもつからだが、その「イチ」の変化を記録する役目を果たしているのが「女紅場」のお師匠「鐡子さん」である。文字を教え、話し方を教える「鐡子さん」は、そこで遊女たちに作文を書かせるが、つまり遊女になることは言葉を身につけることであり、言葉の世界に囚われることにほかならない。中盤の記述から引いてみる。

≪鐡子さんは思わず、花次の書いた文章と花次の顔を見較べた。こないだ田舎娘のなりでやってきたと思っていたのに、顔や姿は変わらないのに、いつのまにかこんなことを書くようになっていた。

売られてきた娘達は田舎にいれば、一生にわたって物を書くことなどない人生を送るだろう。花を眺めてあらわす言葉に悩むこともない。花は花である。鳥は鳥である。木は木であって、それ以上に付け加える言葉はいらない人生。そのぶん間違いのない世界であるが、微妙な味わいも含みも知ることはない。

そうして野良着を汗で濡らして田を這い回り、腰が曲がって生を終える。もし娼妓になる功徳などというものがあるなら、文字を覚え言葉というものを知ることの他にあるまい。≫(「あたいは たちいおに なりもした」)

だから花魁にはなれそうにないが、次第にふつうの遊女になっていく「イチ」を追っていくことは、そのまま言葉でひとりの女性を記述していくことに重なる。それは「ゆうじょ」を「遊女」にし、「ゆうじょこう」を「遊女考」あるいは「遊女行」として意味を確定していくことでもあるが、ではこの作品は十九世紀フランスのモーパッサン『女の一生』や二十世紀日本の有島武郎『或る女』のように、ある女性の運命をリアリティのあるものとして描ききるのかと言えばそうではない。なぜならこの作品にはどこまでも言語化を拒み、最後まで文学的な「運命」という言葉にしたがうことのないもう一つの力が働いているからである。それは女性の身体である。

作者はいわば意味をあたえられる以前の「イチ」の身体性をひらがなとして、女性の運命を描く言葉に違和感を突きつけるものとして、作品に刻みつける。作者は言葉が現実に生きた身体の注釈であること忘れていない。だから表題はひらがなであり、各章の題もまた「イチ」の方言をそのまま写した「へがふっと おもいだす」「じのそこがほげもした」といったもので、意味を示す漢字などはルビとして振られる。作中で引用される「イチ」の作文も、すべて文字を覚えたばかりの「イチ」のおしゃべりに近く、ルビなしで意味を理解することはできない。

しかしそのどれだけ言葉を重ねても理解することができないものこそ「ゆうじょこう」と名づけられた作品の背後に浮かびあがるひとりの女性の身体であり、わたしたちはそのフィックションである作品を読み終えたとき、ほとんどこの作品がはじまる前に生まれ、作品が終ったあとも激動の時代を生きつづけた女性がいたという現実を信じている。声高ではないが、しかし間違いなく二十一世紀に入った現代文学として、日本語の領域を拡張する冒険を試みている快作だ。 

 

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