20130602日本経済新聞より

ゆうじょこう

     村田喜代子著

苦境を乗り越え成長する少女

 

明治36年、鹿児島の南の硫黄島から15歳の少女イチが熊本の有名な遊郭に売られてきた。海女と漁師ばかりの貧しい島に育った彼女は、字の読み書きもできず、鳥の鳴き声みたいな島言葉しかしゃべれない。そんな彼女が店一番の花魁の部屋子となり、遊女として経験を積んでいく物語である。

身体を売ることを強いられる苦界ゆえに、さぞかし悲惨な救いのない内容と思われるかもしれないが、意外にも元気な、ある意味では爽快な小説なのである。もちろん痛ましい陰惨な出来事は多々ある。しかしそれに負けないバイタリティをこの少女は持っている。何よりも「苦界」と一言で称される遊女の生活がどのようなものかを、つぶさに見届ける特殊な職場小説としての感興が大きいのだ。遊郭内部の仕組みやルールに始まり、遣り手婆から仕込まれる床技の仔細まで、知ってみるとそこは消して女を虐げるだけの環境ではなかったことがわかってくる。性労働の搾取の構造は前提としてあるものの、遊女が商品である自らの身体をケアする工夫、そして店側にも商品の質を高めるための配慮があったのだ。その一つが教育である。「女紅場」という妓女のための学校では、読み書きも教えていた。遊女は馴染み客に手紙の一つも書けないと失格である。ここでイチが日記のように書く方言だらけの作文には、島娘の感性が脈打つようにほとばしっている。遊女上がりの先生が彼女を見守る視線も温かい。苦界に身を落とすというが、イチは遊女になって初めて世の中を知り、人間らしく成長していくのだ。

舞台となった熊本二本木の遊郭「東雲楼」は実在していて、遊女たちのストライキ事件で有名である。待遇改善を求めて遊女たちが団結したのである。その史実をもとに、この小説はイチたちが自分の職場の矛盾と不合理を自覚して行動を起こすまでを描いている。だからタイトルの「こう」は、「考」でもあり「校」でもあり「行」でもある。無数の遊女たちが心ある人間として苦界をどう生きたかという隠された歴史が、力強く本書から浮かび上がる。苦境を乗り越える力が手渡される小説だ。

文芸評論家 清水良典

 

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