20120907新潮10月号より

 

 孤独でおおらかな光景   蜂飼耳

  『光線』━村田喜代子

 

からだの内と外を、ひと続きのものとして眺め、生きている場を確認する。村田喜代子の連作小説集『光線』がひろげるのは、そんな世界だ。八編を収録する。

表題作は、ガンの放射線治療をめぐる作品。二〇一一年三月一一日の東日本大震災の翌日にガンの検査手術を受けることなった女性を、夫の視点から描く。切らずに、ガン細胞だけにピンポイントでX線を照射し、細胞にダメージを与えて殺すという最新の治療方法。一連の出来事は著者自身の体験に基づいているようだ。

一ヶ月間、南九州のK市にある放射線センターに通うため、ウィークリーマンションを借りることになる.ベランダは火山灰で汚れている。匂いもする。神楽山の噴火によるものだ。噴火、降りそそぐ灰、震災と被災、ガン、それぞれへの距離。近いものも遠いものも、大きなもの、小さなものも、著者の視界に並べられていく。ふだんは繋がらないものが、言葉の線によって、すっと結ばれていく。

治療室にはいくつかの医療機器とともに移動式ベッドが置かれていて、患者はそこに寝かされ、ブザーが鳴るとまもなく照射がはじまる。一度に十数秒の照射。夫と妻の対話。「本当にあの音がすると身がすくむわ。非常事態発生、みたいでしょ。別に火も出ないし、地震がきたわけでもないし、部屋の中は静かなのに」「あのとき俺たちみんなが君を残して部屋を走り出ていくじゃないか。眼をつむっていても足音と気配でわかるだろう。そのときどんな気持ちになる?」「人間は一人・・・・・・」。

この孤独感は、他の作品の根底にも沈んでいる。たとえば「夕暮れの菜の花の真ん中」という一編では、日の暮れた高原で迷う夫婦が描かれる。あたりの様子を探るために、夫は妻を置いて一人でその場から離れる。「動くなといわれなくても動けない。人間がいないと空気が固まってしまうのだ。みしみしと無音の壁が圧力を増して八方から迫ってくる」。月が雲間に隠れて、急にあたりを呑みこんだ闇。ここには見知らぬ場所でにわかに一人になったときの、ざわざわした恐怖感が映し出されている。

十七のとき、水の事故で亡くなった親戚の信三さん。彼との子どものころの思い出を語る夫。あるとき、一緒に遊んだ後、夫は信三さんを途中まで送った。野原で別れる二人。そのとき不意に襲ってきた淋しさの記憶を夫は語る。地球は丸いから、どの地点もそれぞれに絶頂なのだと「私」はいう。「ふうーん。ということは、人間の別れは自分一人だけで地球を下っていく孤独か」「そうそう。地球のね、傾斜をね、降りていく淋しさ」。このすっきりとした孤独感は染み入るように心に残る。

「楽園」は、鍾乳洞での暗闇体験がもたらす感覚と思考に接近する作品。大学の合宿で、白蓮洞の地底湖・竜ケ淵の手前まで行った学生たちと、洞窟潜水をするケイバーや事故、生還と精神的なダメージが語られていく。ここでも、闇と孤独は全体を包むモチーフなのだ。人間の内面と洞窟は通じている。地元のケイバー・瀧山さんは、洞窟に潜ることは「創造的な体験です」という。洞窟と闇を知ることで自身の内面にも潜っていく若者たちの、原初的なものを手探りするようなやりとりも印象的だ。

さて、表題作との関連で、登場人物たちのその後を描いた作品が「原子海岸」だ。放射線治療によってガンは消えた。センターの「同窓会」が開かれ、主人公の夫妻は参加する。センターの院長に質問が投げかけられる。「あのう、私たちがかけられる放射線って、原発で出来るのですか」。結論としては「原発とは別物です」ということになり、「座の空気がほっと和らいだ」。ある種の後ろめたさに似たものが、放射線治療を受けた人々のあいだに生じたことを、微妙な角度から捉える。海辺の松林が、幻のなかで被災地と重ねられていく。だれもが、自分の生を負っていかなければならない。だれも、だれかの代わりになることはできない。それはいったい何を表わすのだろう。結論のないことや、現実の足元を、この作品は淡々と見直す。

「ばあば神」は、震災当日の東京での混乱を描く。保育園での知り合いの家に娘を預けた「わたし」は、地震のあと、電車が動かないので徒歩で迎えにいく。高田馬場、池袋。道を探すこと、焦燥感。その混乱と、携帯に届いた九州の母からのメールが思い描かせる戦時中の空襲、運命の分かれ目。全体が「突然 携帯が切れた。即死 みたいな切れ方だ」といった一字あける書き方で進む文章が、ふだんの暮らしから浮き上がった感覚を写していく。

「山の人生」は、本書のなかでは異色といえる読後感をもつ作品。舞台は九州山地。「追原」「人首」「不帰之」といった地名と、老人を捨てたという伝承をめぐって、土地の人たちと客人、村長を務めた老人が、真相はわからないまま、語り合う。その老人が、過去の罪や恥を隠すかのように伝承を頭から否定する様子は心に残る。寒々しい結末ではなく、現代への示唆を含む要素が織りこまれている点に引きつけられる。

「関門」は、元同僚のタモちゃんが再婚にともなって海のそばから山手に引っ越したいと「私」に物件の相談をする。本州最西端。「海が気になりだしたのは夜ですよ」と、タモちゃん。「波の下の暗黒」が怖くなり、小型巡視艇や小型飛行機を気にする。「何かと飛んできそう」と心配する。根拠が、あるともないともいえるタモちゃんの懸念を眺める「私」の余裕ある態度が、どこかほのぼのとした空気を、海という「舞台」の上へひろげる。見えないものへの拭い去れない恐怖。それはいつでも、想像でもあるのだ。

富山県・魚津の沖に現れる蜃気楼とその観測を描く「海のサイレン」もまた見えないものを求める人々の姿を捉えていて、喜びと不安、期待と落胆の交錯があざやかだ。鳥打ち帽の男が、二日前に撮った蜃気楼の写真を人々に見せる。「日差しが薄いお湯のように私たちの背中を温めた。鳥打ち帽の男の周りには入れ替わり立ち替わり人々が集まって、熱心に聞き入っている。みんな運のよい男にあやかりたいと思っているのだ」。

火山、海、高原、山地、洞窟。そんな荒々しいものたちの手のなかにいる人の姿を、本書は目を逸らすことなく見つめる。孤独や不安とおおらかさが、さらりと並ぶ光景。この先へ行ってみようという気持ちになる。

(文藝春秋刊・一五七五円)

 

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