20120819産経新聞より

【書評】

『光線』村田喜代子著

 

大災害を文学に昇華させる

 

 

 これは創作誌に発表された短編をまとめたものだが、丁寧な「あとがき」が付されている。それによると、連作の途中、昨年の春先に東日本大震災と福島の原発事故が起こり、しかもほぼ同時期に、作者もガンを発症し治療に入ることになったと記されている。

 当然のように震災以降の作品には、身を切るような治療過程と、3月11日以降の混乱がからみあいながら描かれていくことになる。原発事故とガン治療という2つの不幸を結ぶのは「光線」というイメージだ。

 「あのう、私たちがかけられる放射線って、原発で出来るのですか」

 患者が医者に発するこの何気ないひとことは、私たちが抱えている困難な事態の本質をずばりとらえている。放射線はガン細胞を殺すこともできるが、同時に私たちそのものの生と暮らしを奪うこともできる。人も自然も、すべての存在はこの正と負の両義性から逃れられない。それは作中に登場する「ガン細胞は本人の細胞が変化したものだから自分の一部だ」という言葉と類似する。

 人に限りない恩恵を与えつづける自然は、同時に大地震という私たちにとっての恐怖をはらむ存在でもあるのだ。

 そしてもう一つ、自然現象として提示されるのが北陸の港町、魚津の蜃気楼(しんきろう)である。雪解け水が流れこんだ富山湾の冷気と、陸地の暖気がおりなす光の屈折。その蜃気楼は、まれに鮮明に美しく立ち現れ、見る者の心を打つという。

 蜃気楼も大地震も自然の一部である。災害から引き起こされるおびただしい数の苦しみ、哀(かな)しみを、私たちはそのような自然観のなかでしっかりと受け止めなければならないのだろう。

 今回のような大災害を、文学に昇華させるのはきわめて難しい作業である。関東大震災を題材にした文学作品が、いまほとんど残っていないことをみても、それが分かる。

 にもかかわらず、ガン治療という困難な闘病生活のなかで、3月11日という現実に臆することなく、それを創作の視界にとらえようとした作者の筆力には頭がさがる。(文芸春秋・1575円)

 

 評・藤原智美(作家)

inserted by FC2 system