20120812日本経済新聞より

光線

   村田喜代子著

 

人間のはかさなさと切ない希望

 

あの大震災と原発事故を境に、多くの作家や表現者が動揺し、空ろになり、言葉を失った。本書の著者の場合はさらに劇的だ。連作短編の執筆中に著者は“あのとき”を迎え、ほとんど同時に自らの体に巣くったガンの存在を宣告された。そして日本ばかりか世界中が放射能の恐怖におののいていたころ、著者は放射線にすがる治療を受けていた。そんな奇しき残酷な経験を間に挟んで、この短編集は出来上がっている。

冒頭の表題作は、ガン宣告を受けて九州南端の町にある放射線センターにやってきた妻を見守る夫の視線で書かれている。その町の正面に活火山があり、小爆発を繰り返しては灰を撒き散らしている。地中の核分裂の産物の爆発と、地上の原子炉の爆発、体に放射される見えない放射線、それらが何かの啓示のように絡まりあう作品である。その続編である「原子海岸」では、治療が功を奏してガン細胞が消えた妻と海岸を散歩しながら、夫は太陽も巨大な原子炉だと感じる。個人の闘病体験のレベルを、宇宙的なエネルギーの源にまで拡張していく感受と思考のエネルギーに圧倒される。

一転して「ばあば神」は、首都で3月11日の地震を迎えた母子家庭の女性が、九州の母、祖母からの電話に励まされる話だが、かつて大空襲のさなかに母が祖母から産まれた際に大活躍した曾祖母のエピソードに広がっていく。そして大津波の映像と戦時下の空襲がひと続きのように幻視される。

一方で、爺捨ての伝説が残る九州の山中で極寒の一夜を男たちが過ごす「山の人生」や、巨大な地底湖のある鍾乳洞での暗闇の体験を描いた「楽園」は、人間の内部に潜む闇の恐怖を探り出す。戦争や厄災を起こし、自然を破壊しては同じ自然に他愛なく打ちのめされる人間。存在価値さえ果敢なく揺らぐ人間に、はたして光明と希望はあるのかという問題意識が、そこから滲み出る。

「楽園」で悪夢のような地底の闇と苦闘したダイバーは言う。地上は「楽園です」と。われわれの立つ大地が「楽園」であってほしいという、せつない希望が読後に、しずくのように滴る一冊だ。

文芸評論家 清水 良典

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