20120730毎日新聞夕刊より

文芸時評 7月 

 <147回芥川賞>     田中和生(文芸評論家)

 

問われるプロの文学観 

  リアリティの問題を見過ごし

選考委員すべて一九四五年の敗戦後に生まれた作家ばかりになった、二〇一二年上半期の芥川賞が発表された。受賞作は鹿島田真希「冥土めぐり」(『文芸』)だが、ずいぶんものわかりのよい賞になったという印象だ。戦後民主主義的な「あれもいいが、これもいい」という意見による多数決なのだろうが、しかし文学には「これではだめだ」という線引きも必要ではないか。なぜならその作品はリアリティという点で、見過ごせない問題を抱えているからである。

力作であることは否定しない。発病して働けなくなった夫と、それを支える主人公「奈津子」が囚われてそこから逃れたいと思っている、母と弟が体現する没落した上層階級の描写があまりに類型的だ。母がしつこく語る幼いころの記憶の「高級リゾートホテル」と、弟が誇らしげに食べてみせる「有名ホテルの、最上階の、フレンチレストラン」の「舌平目のムニエル」。きわめて漫画的なイメージだ。

果ては三人で食べる「真鯛のカルパッチョ」が「高級フランス料理店」で出てくる(河出書房新社刊の単行本では「高級イタリア料理店」)。つまり作者がよく知らない、「高級」や「有名」とつければそうなるという程度の、いい加減な「上層階級」なのである。きつい言い方をすればそこで描かれているのは、さほど高級ではない「イタリア料理店」でもおいしい「真鯛のカルパッチョ」が食べられる、現代日本とは何の関係もない言葉だけの世界だ。

そういう言葉だけの世界が「現代の日本の状況」を「映し出している」 (奥泉光選考委員による講評)と評価されるというのは、少々親切すぎる。戦前生まれの作家達はどれほど批判的な文学観を持っていても、滋賀直哉的なリアリズムや私小説的な言葉に対する敬意があり、作品として最低限のリアリティさえないものについては厳しく「これではだめだ」と言った。それができないのは、戦後生まれの選考委員に「こうでなくてはならない」という文学観がないからではないか。

リアリズム批判は戦後文学の支配的なイデオロギーだが、その弊害も限界を超えている。芥川賞の選考委員にはリアリティのある作品を書くすぐれた作家が多いが、そのお墨付きを得てリアリティのない作品が文学として流通していく。いい加減に書いている部分もあるが、よいところを見てほしいというのはプロではなく素人の文学観だ。そうした素人の文学観が、最も興行的に成功している芥川賞によって肯定され、日本の現代文学はますます現実と関係のないものになる。

たぶんその現実と関係ないという不安が、高橋源一郎や古川日出男といったリアリズムを手放した作家達に三.一一の震災「以後」を強調させている。その不安を批評せず、佐々木敦の連載評論「シチュエーションズ」(『文学界』)のように「以後」の小説」などを読み取るのは、親切を通り越している。語るべき震災「以後」の小説などない。震災「以後」そのあり方を変えざるを得なかった脆弱な文学と、そうではない語るべき文学があるだけだ。

連作の第三話となる長嶋有の短編「マジカルサウンドシャワー」(『文学界』)は、作者自身を連想させる作家の「ムネオ」とその知り合いが、インターネット上で短文を交わしあう「ツイッター」に興じる様子を描く。その中心となるのは、質問の上半分を隠して無理矢理それに答えるというゲームである。語り手が寄り添うと登場人物がどんどん変わっていくのは投稿で発言者が入れ替わる「ツイッター」的で、そこで交わされる会話から発言者のリアリティのある生活がさりげなく覗く。

そうして馬鹿馬鹿しいゲームをいい大人が真剣に遊ぶというのは、作者が二〇〇九年に刊行した長編『ねたあとに』で描いたものと同質の世界だ。しかしその震災「以前」から変わらない文学のあり方を作者が震災「以後」にも信じようとしていることは、そこに震災で心が挫けた人物が登場することからわかる。作品が「ツイッター」という現実と深く結び合っているからこそ、そこで描かれる遊びの愉快さは現実に影響しうる。リアリティのない作品は現実で力をもちえないのだ。

そうした意味で震災「以前」から変わらないリアリズムの言葉で格別の存在感を示しているのは、辻原登『父、断章』(新潮社)と村田喜代子『光線』(文芸春秋)という二つの短編集である。辻原は表題作で戦後生まれの男性作家として初めて、私小説的な言葉を利用して戦前と戦後の屈折を生きた「父」をリアリティのあるものとして描くことに成功している。その視点から「母」やその他の人物を描く珠玉の短編集になっている。

一方の村田は、震災直後に発見されたガンで放射線治療を受ける、老年にさしかかった情勢を夫の視点と一人称で交互に描く。人間を治癒する放射線と福島の原発事故から出た放射能という、矛盾した「光線」がそのまま作品に持ち込まれていることに強いリアリティがある。

 

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