20120725朝日新聞朝刊より

〈文芸時評〉「部分」と出会う   ■松浦寿輝(作家・詩人)

   終わらなくても面白い

 

画・寺門孝之「屋根屋」

 

 

 エンターテインメント系の雑誌でも同じだが、文芸誌のページのかなりの分量は「連載」や「連作」で占められており、その月に掲載された部分だけ読んでも、それが作者が構想している全体像の中にどう位置づけられるのかがいっこうに見えてこず、欲求不満ばかりが募る。そこで、将来の完結を待って一気に読もうと心に決め、とりあえず判断は留保しておくというのが、一応穏当で「良心的」な評者の姿勢ということになってしまう。

 

 とはいえ、進行途中の作品の一部分をいきなりさっと読み、作者の構想も作品の全体像も意に介さず、単に「それだけ」を享受してしまうという無責任な読書体験が禁じられているわけでもない。小説とは、何をどう書いてもいいように、何をどう読んでも許されるジャンルのはずで、実際カフカの長篇(ちょうへん)など、任意の数ページを行き当たりばったりに読んでもそれはそれで非常な興奮を呼ぶ。小説に「全体」や「始まり」や「終わり」がはたして必要なのか。

 

 そんなことを改めて考えてみたくなったのは、「新連載」と銘打たれた村田喜代子「屋根屋」の冒頭部分の名状しがたい面白さを前にすると、もっともらしい締め括(くく)りでもって結構を整えようとやっきになっているあれやこれやの短篇群が、何か小心翼々とした工芸品に見えてきてしまうからだ。

 

 屋根の雨漏りの修繕に来た職人と、その家の主婦との間に淡々とした会話が交わされる。「屋根屋」第一回の内容は結局、それだけのことに尽きている。主婦も「屋根屋」も至って平凡な常識人で、そこには阿部和重『クエーサーと13番目の柱』(講談社)のような派手な映画的アクションが炸裂(さくれつ)するわけでもなく、本谷有希子『嵐のピクニック』(同)のような奇矯な趣向のつるべ打ちが繰り広げられるわけでもない。

 

 だが、武骨で無口な「屋根屋」が徐々に心を開き、実は自分は「夢日記」をつけているなどという突飛(とっぴ)なことを急に打ち明けはじめるあたりの語りの呼吸が、なぜか異様に面白い。この第一回は、そのうち「奥さんがびっくりして溜息(ためいき)ばつくような、すごか屋根のある所」へ案内しましょうという思わせぶりな言葉を彼が洩(も)らすところで終わる。

 

 この後どんな展開になるのか見当もつかず、楽しみだが、それはそれとしてわたしとしては、この冒頭部分を読めただけでも十分満足している。「屋根の修繕」などという一見つまらぬ出来事に、これほど不穏な小説的サスペンスが充電されうるものかという驚きを堪能できたからだ。

 

 他方、小川洋子『最果てアーケード』のように、一貫した想像力によって見事に構成され、堅固な小世界を現出させている短篇連作の精華を前にすると、その完結した「全体像」の鮮烈さに息を呑(の)まざるをえないのも事実である。舞台は架空の街の架空のアーケード商店街で、そこには古びたレース編み、剥製(はくせい)動物用の義眼、使用済みの絵葉書(はがき)、ドアノブ、化石など、無意味すれすれの物たちを売る店々が立ち並ぶ。

 

 ひとたび失った大事な何かともう一度めぐり逢(あ)うためにそこを訪れる淋(さび)しい人々。アーケードの天井をなす「偽ステンドグラス」を透かして落ちてくるかそけき光のニュアンスを伝える繊細な描写。小川氏のかつての佳品「薬指の標本」の世界がさらに深化し、あえかな抒情(じょじょう)を湛(たた)えた幻想空間へと昇華されている。想像力の質はスティーヴン・ミルハウザーのそれに多少似ているが、小川作品の女性的な優しみは、これ見よがしな衒学(げんがく)趣味が鼻につくミルハウザーの綺譚(きたん)にはないものだ。

 

 佐飛通俊(さび・みちとし)「さしあたってとりあえず寂しげ」は、職場のセクハラに耐え、不実な恋人の裏切りに耐え、友人の突然の自殺の衝撃に耐え、孤独に耐え、眼前の現実を「さしあたってとりあえず」受け入れつつ、あくまで前向きに生きる三十二歳の独身女性のポートレートを生彩豊かに描く。

 

 作品の末尾でこの「菜子」は、「既知の連続」「絶対的な反復」でしかない現実を「未知へと塗り替える」には「目覚め」が必要だという認識に達する。「目覚めることを目覚めるような、目覚め」が、と。村田氏の小説の登場人物同様、彼女もまたどこにでもいそうな平凡な女性である。しかし、過剰な感傷を排し、仄(ほの)かなユーモアを滲(にじ)ませつつ坦々(たんたん)と進行する佐飛氏の文体によって描出される彼女の楽天主義の力強さに、わたしは或(あ)る感銘を受けた。

 

 他に、丹下健太「顔」(すばる8月号)も面白かった。三人の男の顔が、一人ずつずれる形で或る日いきなりすり替わってしまうというこの「他人の顔」の物語は、自分は何によって自分であるのかという深刻な主題を扱いつつ、書きかた自体はあくまでのどかな冗長性を誇示しており、その落差が快い脱力を誘う。

 

 「古びた前衛」のように見なされていっとき読まれなくなっていた安部公房の思考実験が、また文学の最前線に回帰しつつあるのだろうか。そう言えば、彼の想像力の特質を精緻(せいち)に分析した苅部直『安部公房の都市』(講談社)も、今年二月に刊行されている。

 

■今月の3点

 

●村田喜代子「屋根屋」(群像8月号)

 

●小川洋子『最果てアーケード』(講談社)

 

●佐飛通俊「さしあたってとりあえず寂しげ」(群像8月号)

 

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