20120301『週刊文春』

 

活字まわり

昼休みに短編を   岩松 了L

 

「あっ」と思ったあとの限りない静けさ、「あんなことやらなきゃよかった」と思ってももう遅い脱力と、そのとき逆流し始める血液そして裏返る昨日までの健全。誰もが見に覚えがあるに違いない冷や汗の時、それを二人の少年のオートバイのツーリングで描いてある村田喜代子「熱愛」。

海沿いの崖っぷちの曲がりくねったコース、最終地点で待ち合わせることに決めた二人が出発時間を少しずらして出発する。道は一本しかないのだが、あとで出発した方が最終地点に到着したとき、先に出た少年の姿は見えない。ということは・・・・・・。

そのシンプルなシチュエーションの中に、いっぱいの普遍が落ちている。故に読む者は心あたりのある自らの過去に思いを馳せて、ちょっとメランコリックな気持ちにさえなる。描かれているのは実に残酷なことなのにだ。或いは、“青春のすべて”といっていいかもしれない。喪失の記憶、失敗の記憶、人間が生まれ育ちゆくことは、そこに始まっているはずなのに、うまいこと忘れて過ごしていける日々が突然裏返るのだ。こんなことがあってもやっぱり人生は肯定すべきものなのか、そう叫びたくなるが、この短編の魅力は、なぜかそこに明るい光ばかりが射しているというところだ。

そして秀逸なのは、最終地点に到着した少年が、しばらくことの次第に思い至らず、走り終えた満足と疲労に地面に身を投げ出し、しばし至福の時をすごすところ。≪足もとから土の持っている均衡がゆっくり回復してくる。ジャンバーを脱ぎ手袋をはずし、シューズを抛り投げる。ぼくはそれらの物が草の上に叙情的な、なにか花束のようにまきちらされるのを眺めた≫という・・・・・・。

 

いわまつりょう/劇作家、演出家、俳優。(この欄は、岩松了、種村弘、長島有里枝、植島啓司の四氏が毎週交代で執筆します)

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