20111129毎日新聞夕刊より

 

文芸時評11月 <短編小説の力>

  寓意で示す時代の里程標

     現実以上に多義的な世界

                田中和生(文芸評論家)

 

短編が多く並ぶというのは、かつての文芸雑誌では12月に発表される新年号の恒例だったが、『群像』12月号が短編小説を特集していることもあり、今月はそれより一足早く読み応えのある中短篇小説がならんだ。

まず短編の力とはどんなものか教えてくれるのは、『群像』の特集に収められたアメリカ合衆国の作家ジョージ・ソーンダーズの2003年の作品「赤いリボン」(岸本佐知子訳)だ。語り手は狂犬病が原因と思われる事故で幼い娘を亡くした父親で、二度とそんな悲劇が起きないようにという思いを託しながらその事故が起きた小さな村の出来事を訥々と語っていく。次第に娘の形見である「赤いリボン」が正義の象徴となり、人間の命より重くなっていくように感じられるのが不気味である。

そうしてリアリズム的に読み、現代の合衆国の不穏な日常を描いたものとして充分おもしろいが、しかしそれが九.一一以降のアフガニスタン侵攻からイラク戦争へと向かっていた合衆国で書かれたことを考えるとき、作品はまったく別の寓意的な側面を現わす。なぜなら語り手とその伯父が村で推進する、小動物の皆殺しは合衆国の「対テロ戦争」そのものに見えるからである。こうしてその短編は時代の里程標となっているが、それはそこで描かれた世界が現実以上に多義的だからである。

たとえばその多義性とはリアリズム的であってリアリズムではないということだとすれば、辻原登「天気」(『新潮』)と村田喜代子「海のサイレン」(『文學界』)は、その短編の力をよく感じさせる作品だ。

作者自身を思わせる、「立花」という名の「天気」の語り手の「私」は、自宅のある横浜から故郷のある紀伊半島で行われる講演会へ向かう朝になって、新幹線の時刻を間違えていたことに気づく。電車では絶対に間に合わないが途中の松坂まで車で迎えに来てもらって辛うじて滑り込む、という顛末を私小説的に語っていくが、その車で道中が野口富士男の小説「なぎの葉考」の内容と重なるあたりから、作品は単なるリアリズムのものではなくなっていく。

なぜならそこに現われるのは批評であり、文明論であり、舞台である紀伊半島にある白良浜の「白さ」が誘う幻想である。講演会の翌日に人と会う約束を果たし、父と母についての記憶を反芻しながら「私」は「私」の起源を訪ねるかのように旧友に会い、最後に廃墟となった生家を訪れる。そこで「私」はけっして見ることができるはずのない場面を見るが、その場面を包む「白さ」のなんと不思議な懐かしさだろう。あるはずのない記憶をリアリズム的に喚起する、作品の幻想の力である。

一方「海のサイレン」も、作者自身を思わせる「私」が語り手だ。蜃気楼で知られる富山県魚津に嫁いだ伯母の思い出からはじめ、住んでいた北九州から夫と魚津の海まで蜃気楼を見に行ったときのことなど、気楽なエッセイのように語っていく。しかしその中心にあるのは決して気楽なものではない。本来警報であるサイレンが魚津では蜃気楼が出ると鳴り響くというイメージを頼りに、「私」の連想は戦争中の空襲警報と三.一一の震災を結びつけていく。

末尾で「私」はその三月一一日に、蜃気楼が出たかどうかを魚津の博物館に問い合わせる。話を聞いた「私」は出なかったと考え、かつての「私」と夫と同じようにその日浜辺で蜃気楼を待っていた人々のことを思いうかべる。奇妙な結末に思えるが、「私」が蜃気楼という幻が出ずサイレンもならなかった土地のことを想像するのは、実は震災という現実が起こりサイレンが鳴り響いた土地のことを考えているからである。読者の想像力を問う作品だ。

(後略)


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