「群像」20104月号より

望郷のカタルシス

            小林紀春

 

本書には、昭和十七年生まれで六十五歳になる笑子さんという女性が登場する。笑子さんは生まれた家を処分するため、東京から九州の生家にしばらく帰郷する。目的は、その一年前に母が亡くなり無人となった家を整理し、売り払うためだ。不動産屋に連れられて時々、家を買いたいという人物が訪れる。でもなかなか家は売れない。連作である物語はこうして始まる。

標高八百メートルの久住高原にある家はずいぶんと大きく、部屋数が十八もある。ほかには住人はおらず、東京から連れてきた犬のフジ子だけがいる。夫には先立たれた。二人の兄もこの世を去っている。妹は遠くイタリアへ嫁いでいる。

「もうじゅうぶんに役目を果たし終えた建物」は荒れていた。それでも、かつてこの家で暮らしていた家族の無数の物たちが、ひっそりと残されていた。台所の調理道具や使いかけの調味料、兄の机、本箱、筆箱、絵の具箱、習字箱、錆びた肥後守のナイフや教科書といったものが埃をかぶっていた。

この家で、笑子さんはまず「望郷」について考えることになった。それまで母が暮らしていたことでかろうじてつながっていた生家と土地に対して「それはもうこの世から消滅してしまった故郷です」「故郷はあっても親のいた時間の故郷に帰ることはできません」と嘆く。そして涙ぐむ。

つまり、故郷へ帰ってきたというのに、そこに故郷はなかったことに気がつき愕然とする。「望郷」とは本来、離れた場所に居て故郷を想う感情だが、笑子さんは東京に暮らしていたときには「たいして九州の山を恋うことはありませんでした」という。でも実際に帰郷し、奇妙なかたちで「望郷」の念が噴出したことに笑子さんは戸惑うのだ。やがて、それを少しずつ受けいれていく。本書は年老いていく者にとって何を故郷と呼ぶのか、呼べばいいのかを終始問うている。

読みすすめながら、私はどうしても自分の母親のことを、笑子さんに重ねずにはいられなかった。私の母は笑子さんより二つ年上の昭和十五年生まれだ。かつて私の祖父母を含め七人が暮らした私の生家に、いま一人だけで住んでいる。祖父母と父はすでに亡くなり、三人の子供は家を出た。ラジオの深夜放送を聞いているところもよく似ている。

私は時々帰省するたびに思う。母はこの家で一人、日々何を思っているのだろうか、と。祖父母が使っていたあらゆる物、同じく父が残していった多くの物、そして私たち兄弟がかつて使っていたベッドや家具、教科書といったものも残されている。膨大な、言ってみれば過去の遺物を日々目にしながら、どのような感情を抱いているのだろうか。私にとって、それらは威圧的だ。自分の過去が攻めてくるような気持ちになる。もしかしたら本来の家の住人は物の方で、人間は一時だけ仮住まいをさせてもらっているとさえ思うことがある。

母を見ていると、まるで過去の記憶を食むように、いまを生きている気がしてくる。人はある年齢に達すると、みずからの未来より過去の方が魅力的に映るのだろうか。とにかく、あるときから昔の話ばかりをするようになった。それはそう遠くはない未来に死を確実に感じているからかもしれない。

笑子さんの脳裏にも過去のことばかりがよぎる。時に過剰に過去に落ちていく。抜け殻のように残された遺品を片付けながら、笑子さんはさまざまなことを思い出す。恐竜好きの一番上の兄が、やはり恐竜好きだった二番目の兄の遺灰をゴビ砂漠に撒いたこと。あるいは台所を片付けながら、ふと夫の母親、笑子さんにとっての義母のことを頭に描く。物欲と嫁への支配欲が強かったこと、それらは義母の満州での苦しかった体験から来ていたことへと連鎖していく。

「世界中どこへ行っても同じや。わざわざお金を使って行くほどのことはない。世の中は大して変わらんのよ。みな同じや!

そう呟いた義母の顔を「醜い」と感じたことも笑子さんは忘れない。それでも台所のこまごまとしたものを処分しながら、記憶は目の前のアルミの鍋、すりこぎ、醤油さし、砂糖壺、塩壺といったものたちの方へ流れ出し、溶け合い同化していく。「世界にはじつに様々な国があり人々の暮らしがある」ことを笑子さんは体験から知っている。一方で「世界中どこへ行っても同じ」ことにも気がついていく。

ほかにもさまざまな場所で出会った人達が登場する。定年後に心臓発作で亡くなってしまった幼なじみの男、またはグランドキャニオンでわずかばかりの知識をひけらかす男。誰もが記憶の中では角を落とし、とても優しい。

記憶は勝手にお互いが結びつき、たったいまに影響を与え、笑子さんにあらたな感情を呼び込む。つまり記憶はつねに変化し、つねに新しい。

やがて笑子さんはフジ子と共に生家を去る。東京へ帰るのだ。住み始めて五ヶ月後のことだ。何故それだけの時間、住んでいたのだろうか。物を処分するだけだったら、もっと短い時間で終わったはずだ。自分の根幹を形成した場所で、自身に関わる人たちのすべてをみずからの手で処分する。このことはどういう意味を持つのだろうか。処分することは間違いなく、やがて訪れる死への準備と関係があるはずだが、それ以上の意味とはなんだろうか。

ふと私は笑子さんから、当初の「望郷」の念が消えていることに気がついた。それは現実の故郷におそるおそる触れ、汗を流し縛り上げ、処分したからではないだろうか。つまり、みずからの手で息の根を止めたのだ。切なく孤独で残酷な作業だと思う。それを終えるのに、それだけの時間が必要だったはずだ。だからだろうか、読み終えると思いがけず、すがすがしさがやってきた。

(新潮社刊・税込定価一七八五円)

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