『文學界』201004月号より

「故郷のわが家」村田喜代子

   にぎやかな山籠り

                    谷崎油依

 

眼下に雲が海のように広がる山の高みでは、地上の営みはどのように感じられるのだろう。さまざまなものが別様に見えてくるのかもしれない。標高八百メートル、阿蘇山を見晴らす久住高原の生家に、笑子さんは戻ってきた。家財を整理し、家の買い手を探すため。両親も夫ももう死んだ。六十五歳の笑子さんは、犬のフジ子と二人暮しだ。

到着した翌日、一日片づけをして草臥れた笑子さんは、夜の八時に眠ってしまう。目覚めると午前三時。山の深更は恐るべき静かさだ。「どこまでも天然の夜の闇が高原の家にみしみしと迫って」いる。「世界の大戸が降り」て、「夜明けまで太い閂が掛かって」いるみたいだ。山籠りをしたことはないけれど、時間帯なら、わたしも馴染みがある。街なかにいてさえ、それは魔の時間だ。笑子さんは堪らずラジオをつける。流れてくるのは古い流行歌。もうこの世には生きていない歌手たちの声が響いてくる。太平洋戦中、兵士たちが愛した『勘太郎月夜』。べつの晩には『トルコ行進曲』が聞こえてきて、旅先で会った風変わりな男を思い出させる。昼間は山を歩き、家を整理し、夕方から眠って深夜に起きる。山にいる間だけのそんな生活。とある晩に訪れるのは兄達の記憶、それからシベリア抑留者だった義父のこと。一番目の兄は恐竜が好きで、化石の出るというゴビ砂漠へ行った。十二歳で死んだ二番目の兄の、遺灰をその砂漠に撒いた。同じ砂漠を義父が横切っていく。恐竜が走っていく。空気の薄く乾いた山の上、誰にもどこにも属さない、丑三つ時から夜明けの時間、エアポケットのような真空で、会うはずのないものどうしが出会う。静かなはずの山の夜は、この上なくにぎやかだ。

語っているのだ誰だろう。語り手は笑子さんを、「笑子さん」と三人称で呼んでいる。ですます調の語り口は、どこからともなくやってくるお伽話の声のようだ。おおらかで愉快で、距離がある。ときどき笑子さんが泣いても、感傷に流れたりはしない。笑子さんの性質は、そもそも名前にあらわれている。望郷もからりとした情緒になり、ユーモラスに変転していく。笑子さんの望郷は、個人だけのものではない。個人の中に引きこもらない(きっと、だからからりとしているのだ)。太平洋戦争の兵士のものであり、また動物たちの望郷ですらある。村田氏はかつて「鍋の中」で、主人公の少女たみを通して、「年寄りとは、なんとふしぎな人達なのだろう」と語ったが、「老女の入り口にそろそろ」いるというこの小説の笑子さんも、やはりくるくるとよくまわる。好奇心旺盛なあの少女のような目で世のなかを見ているのだ。高い場所にいる笑子さんは、感度の良いアンテナを思わせる。山のことも過去のことも、テレビのなかの出来事も、なんでもひっかかってくるアンテナだ。と同時に健全な生活者であるところが、彼女の小気味よさである。動物実験への疑念や環境への意識も、その平衡感覚の続きにあるものだ。山で採れたタケノコを昆布と鰹節で煮て食べる。養鶏場の恵子さんに習ってこんにゃくを作ってみる。ヒノキの精油を採ってみる。ドイツ人の夫を持つミユキさんも交えて、鳥たちの声を聞き、姿を眺める。笑子さんの山の日々は、五感すべてを使う日々だ。築八十年の生家には日本の原風景がある。ひしめいている道具たち、古い茶碗に古い布団。でもそれだけではない。白水サキさんとはメール友達だし、恵子さんの夫婦は研修で世界のあちこちを飛びまわっている。これは現代の故郷、なのだ。またかならずしも日本的で、ではなく、たとえば蘭引きでヒノキの精油を採るくだりなど、錬金術でもするような風情だ(じっさい、笑子さんはファウスト博士の台詞を呟いてみせる)。

ユーモラス、と書いたけれど、このユーモアはなかなか底が知れない。「春の、地獄」という言葉が出てくる。春先、野焼きしたあとの真っ黒な地面を歩きながら、笑子さんはこの言葉を呟く。卵を抱いた春の蛇は凶暴、「春の地獄は足元から」と。本書の装画になっているヒエロニムス・ボスの「最後の審判」が、ちょうどそんな印象だ。陽気な地獄、とでもいうべきもの。たとえば「天昇り」の章では、お婆さんたちが捏ねたお花見の、無数の団子が一陣の風とともに、たくさんの髑髏に変わるくだりがある(団子はお供えだから、戦死者の数だけ作るのだという)。またもっとも迫力ある章のひとつ「暗闇歩行」では、笑子さんは恵子さん、ミユキさんとともに青年組合の集会に参加する。この日の話題は戦没者の遺骨収集についてだ。山道が雨で崩れていたため、三人は車を降り、夜道を歩くことになる。集会所ではスクリーンに焼骨の様子を映している。ガダルカナル島で拾った骨に火をつけると、会場から文句の声が出る。けれどマイクの調子が悪く、遺骨収集をめぐる深刻な口論には可笑しなエコーがかかっている。「どなたですかすかか。厳粛な焼骨式の邪魔をするのはるのはるのは」「うるさいうるさいうるさい。今さら過去を持ち出すのはやめろめろめろ。死んだ者の魂はもう故郷に帰ってるんだてるんだるんだ」映像の中の火が、こちら側にも燃えうつる。映像の戦争と交じる。というと、内田百閧フ「旅順入城式」を彷彿とするけれど、それよりももうひとつ底が抜けている感じだ。オウムがシューコツ、シューコツ、と叫び、逃げ出した闇夜の道で兵隊服の男に靴を盗まれる。「裸足の足に粘るのはどろっとした褐色の液汁の沼でした。ここに折り重なっているのは何百体でしょう。みんな一緒に大きなスープ状の沼に沈もうとしています(ああ人間はこんなになるのですね)。何て恐ろしくて賑やかで静まりかえった沼でしょう」━。

春はいつか夏になっている。八月、笑子さんは山を降りてゆく。とうとう家が売れたのだ。山の生活は日常ではない。それは寂しいことだ。けれどもこれは本なのだから、また読み返すことができる。雲の上の高みには、べつの時間が流れている。ゆっくりとしたその時間は、幾度でもそこに遊ぶことを許してくれるのだと思う。

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