「新潮」2010年3月号より

本 清々しい新旧交感の物語  池内紀

    『故郷の我が家』 ━ 村田喜代子

 

ふつうは若い人が成長する。未知と出会いながら青年がオトコになり、小娘がオンナになる。これに対して、年寄りは老いていく。古びたものはゆるやかに、あるいはある日、突如として消え失せる。

村田喜代子の『故郷の我が家』はトシよりと古びたものたちの物語である。短編九つがつらなった連作のつくり。問う年65歳の恵美子さんは、空き家になったままの故里の家を処分するために戻ってきた。大きな屋敷で、部屋数が十八あり、築八十年。物持ちのよかった母親のせいで、どの部屋にもモノがどっさり。順次整理して、売れるモノは売り、捨てるものは捨て、屋敷そのものも手放す予定。

当今は六十五歳をトシよりというと怒られるかもしれないが、笑子さんは両親を見送り、夫を亡くし、子供たちは独立。生まれ育った家の始末をつけるとあれば、立派に老齢気只中である。その人が古家の道具類の片付けに日々を過ごす。にもかかわらず、ここではトシよりが成長する。うしろ向きに若くなり、春のように若やいで消滅などしないのだ。村田喜代子の小説がフシギな味わいにみち、新鮮なおどろきとともに読むすすみ、終わったあと、えもいえぬ余韻ののこる所以である。

古い大きな家には当然のことながら、古い家具がある。

「天井に届くような一軒箪笥が何竿もあります」

中には変色した紋付羽織が20組あまり。着物の山、櫛や簪。出征兵士の無事を祈願した千人針などもまじっている。使い古しの座布団は、固く薄くのびている。

「人は死んでしまっても肉体は凄いです。座布団は見事に熨したようにぺったんこで、亡き人たちの垢と脂で艶を帯びておりました」

独特の臭いのことはいわぬまでのこと。一度でも人がふれたものは、年月がたつと強烈に臭うのだ。

台所の古物類のくだり。整理中の笑子さんの目に映る順のように。カッコしてあげてある。

(アルミの大鍋。中鍋。小鍋。鉄鍋。中華鍋。錆びたフライパン。アルミの大根おろし。すり鉢。山椒の木のすりこぎ。曲げわっぱのお櫃。同じく弁当箱。ゴマを炒る俸禄。竹の蒸篭に、蒸し器。竹の大ざる。中ざる。小ざる。ステンレスの油入れ。プラスチックの油引き。醤油さし。ソースさし。砂糖壺。塩壺。竹しゃもじ。ステンレスのお玉。菜箸。その他、台所のフジツボです)。

トシよりは夜中のとんでもなく早い時刻に目が覚めてしまうもので、やむをえずラジオをつけると、おなじみ「ラジオ深夜便」。そこには往年の流行歌手がじっと出番を待っている。岡晴夫、林伊佐男。春日八郎。伊藤久男がドンドコドンドコの太鼓をバックに「イヨマンテの夜」を、三橋美智也が「哀愁列車」を歌っている。現役の歌手と違うのは、切々と歌い終えると「沈黙の裡」に消えていくこと。

古い物や古い歌手の他にも、トシよりには古い記憶がいろいろとある。子供の頃につれだって森へ行ったタケコちゃん、その弟で痩せっぽち泣きべそかきのシゲル。中学生の笑子さんが心ときめかした白いカッターシャツの男の子。

古いものがひしめきあうところに古い人を送りこんで、村田喜代子は清々しい新旧交感の物語を作った。笑子さんの生まれ故郷は九州の久住高原。東西二十キロにわたる台地に肥後街道が通っていて、大昔から人が住んできた。広大な高原は見渡すかぎり重畳と起伏する峰々をもち、季節とともに圧倒的な自然のよみがえりを演じてくれる。

それに━言い忘れていたが、主人公の傍らにはひとつの小さな命がある。みにチュ絵ダックスフントで、小さなイタチのようなやつ。名前は「フジ子」。寝るときも散歩もいつもフジ子がいっしょ。

いかにも帰郷した。だがもとの場所にもどっても、もとの時間にはもどれない。それがこの世の宿命だ。ところが人間は━人間だけにかぎらないかもしれないが━思い出すという奇妙な能力をそなえている。ちょっとしたきっかけで数十年が一挙に消え失せ、ある日のあの瞬間に立ちもどっている。

さらに、夢というヘンテコなやつがはたらく。これも人間だけにかぎらないかもしれないが、眠りの中で夢を見る。そこではもとの場所、もとの時間だけでなく、考えもせず、知ることもなかった前世の場所、前世の時間とおぼしいなかに平然と入りこんでいたりするのだ。

『故郷のわが家』のゆたかさ、たのしさがおわかりだろうか。作家村田喜代子の天賦の才に似て、ごくさりげないつくりのもとに、死物が植物のように生育し、死者が動物のように走り出す。ここでは古びた人だけでなく古びたものたちも主人公の手の中で成長していく。たとえば山のようにある古座布団だが、布団のがわだけはずせば廃品回収に出せるし、綿は打ち直しの業者が引き取ってくれる。チョキチョキと縫い糸を解いていくと、綿がたちまち綿でなくなった。

「座敷じゅうに、あっちにもくったり、こっちにもくったりと、昔が倒れ伏しています」

遠い昔に死んだ犬が夢にあらわれ、「また会おう」と口をきいた。

「笑子さんは居間に置き放していたボストンバッグからノートパソコンを出してきて、テーブルの上で開きました」

「テーブルに載っている笑子さんの携帯電話が鳴りました」

古い人の古物の世界には、ちゃんと新しい時代の新しいメディアが用意されている。それもごく自然に、いつもお伴のダックスフントのようにかたわらにいて、出しゃばりもせず、よけいな口をきかず、ちゃんとお役に立って、用がすむと器物の沈黙にもどる。村田喜代子の新メディアたちはきちんと器物の分をこころえている。

帰郷して半年足らず、すべてを処分して帰途についた笑子さん。ツキーヒーホシーホイホイ(月、日、星、ホイホイ)とシャレた鳴き声の小鳥に送られて山を降りるのがしめくくり。車の中で眠ったまま少し笑っている笑子さん。その最後の五行だけ語り手が変えてある。幻になったわが家を、きれいなリボンでクルリと結んだぐあいだ。

(新潮社刊・一七八五円)

 

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