日本経済新聞20100307読書より

広大な台地にこだまする悲哀

  「故郷のわが家」村田喜代子著

                       作家 稲葉 真弓

 

深い水底から見上げる世界・・・・・・。案外それが「故郷」なのかもしれない。つかもうとすると瞬時に消える蜃気楼のよう。生の原点として刻印されているにもかかわらず、時間とともに失われた「故郷」もあるだろう。本書にはさまざまな「故郷」を描いた連作9編が収められている。

主人公は65歳の未亡人笑子さん。母の死後、築80年の生家を売却するため東京から九州・久住高原に来ている。著者は、ふきのとうが顔を出す早春から家が売れて高原を去る8月まで、古着や古物と格闘する彼女の日々を生き生きと描き出す。愛犬のフジ子と散歩に出れば、重畳起伏する山の峰々、牧場には牛がひしめき、空気には森の精気が満ちる。ときに高原は雲海に閉ざされ、あるときは行く手を霧にふさがれる。行間に漂う山の霊気、風の気配に思わずページを閉じ、陶然と宙を見つめた瞬間が何度もあった。ああ、広大無辺。その広大さは、自然描写からだけやってくるのではない。笑子さんの心に明滅する記憶のあれこれ、出会って別れた人々の声や姿が連鎖の糸を紡ぎ、まるで国境なき天地を旅する感覚を誘い出すのだ。

紡がれていくのは、ラスベガスへの旅で知り合った男の孤独な人生、一冊の雑誌から姿を現す恐竜好きの亡兄の姿、シベリアの捕虜収容所で戦後の一時期を過ごした義父の思い出など。別の日には太平洋の島々で遺骨となった日本兵達の望郷の思いが、笑子さんの心に乗り移ってくる。訪れるのは過去の人とは限らない。深夜のラジオ番組からは、いまこの瞬間、なにかに耐える人々の姿が浮かび上がる。電波の果てにも広大無辺の魂の国が広がっているのだ。同時に本書は、いつかやってくるかもしれない悲劇的な未来をも予見させる。温暖化で海面が上昇、南洋の小島にしのびよる「祖国沈没」の危機、あるいは人工臓器や再生医学の開発によって、人や動物が「肉体の故郷」を失う恐怖など。はろばろとした久住高原に、人間によってもぎ取られていく幾多の「故郷」の悲哀がこだまする。私たちはどこに帰るのか。読後、心のざわめきは止まらないままだ。

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