20090403週間読書人より

人間の年齢感覚の不思議さ 奇妙さを見届ける作者の目

                        菊田均(文芸評論家)

 

呑気な表題の作品だが、中味もごくごく明瞭だ。際の夫が心臓の動脈瘤になり、手術の結果とりあえず治った、というのが大まかなストーリーだ。

ただ、この作家が一筋縄ではいかないのは、作品展開とは別に、見るべきものは見ているからだ。

「巷には戦後生まれの新老人が歩いている」という言葉。作者は昭和二十年四月生まれなので、厳密には「戦前派」だが、実質は戦後生まれと言ってもいいだろう。そういう世代の人間が老人(六十歳以後をそう呼ぶとして)になっている。彼ら「新老人」(この命名も新鮮で面白い)は、「歳取ることに不器用」と作者は書く。

作者より3歳年少の「新老人」であるわたしも「不器用」説に全く同感だ。歳を取ることの不器用さそのものをもっと描いてもらいたかった、という思いは残るが、ストーリーの流れとはやや違ったものである以上、そこは無理な注文というものだろう。

六十四歳の夫(会社経営)は、二歳年下の妻から見てうるさい男だった。当初から口うるさかったわけではなく、いつのまにかそんな男になった。「いつのまにか」、という感覚がよくわかる。

しばらくそうした時代が続いていたが、大病をしてから夫が変わった。怒らなくなって、やがてそれが身についてきた。怒るまいとして怒らないのではなく、本当に怒らなくなった。「夫唱婦随」が「婦唱夫随」になった。九州が舞台だから、東京あたりと違って「夫唱婦随」度が高い地域だけに、この変化は大きい。

くわえて、顔が白くなった。病気だから当然、という以上に、蚕のように透き通るようになった。何か人間のありようが変わってきた。そうした変化の様相は,病状の変化の推移と共に「そうだろうな」と思えるように描かれている。

ストーリーの流れとは直接関係内が、「服飾の人体への残酷氏」への言及も面白い。妻は服飾にかかわる大学教授という設定だが、鉄製のコルセット(女性)、王族や貴族の巨大な衿飾り(男性)、東南アジア山岳民族の首輪(女性)、中国の纏足(女性)、現代女性のハイヒール・・・・・・、などの事例が取り上げられている。

一般に女性のケースが多く、ハイヒールの習慣は今でも行われている。首を締め付けるネクタイ(男性)の習慣も、徐々に失われつつはあるものの、二十一世紀の今でも奇妙な風習とは未だ考えられていない。

だが、老いと若さの関係を語ったものとして、村田英雄と三波春夫に言及した部分は、作者特有の視点がよく出ていて、非常に面白い。

長野県の民間医療施設で夫が治療を受けていた時のこと。ロビーのテレビに、有名歌手の二人の昔の姿が映る場面がある。四、五十代の全盛期の演歌歌手の姿を見た妻は「後戻った若さが薄っぺらく見える」と思う。

「過去は振り返ると常に未熟で未完成なのだろう」と作者は書いているが、自分であれ他人であれ、若い人間は未熟に見える。だからといって、老人の今が成熟したわけでも完成したのでも全くないのだが。それでもそう見えてしまう。そうした人間の年齢感覚の不思議さ奇妙さを、作者の視線はしっかりと見届けている。


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