日本経済新聞20090315より
読書 あなたと共に逝きましょう 村田喜代子著

 

昼の知的思考と夜の無意識

文芸評論家 井口時男

 

六十四歳の夫と六十二歳の妻。夫は機械の設計事務所を経営し、妻の「私」は大学でモード論や服装文化を教えている。ある日、夫の声が出なくなり、検査で大動脈瘤が発見される。直径六センチ。いつ爆発してもおかしくない。切除しなければ確実に死ぬ。けれども手術には高い危険性もともなう。夫婦の緊迫した日々が始まる。

手術を受ける決心がつかない夫は、ラジウム温泉の岩盤浴が効果があると聞いて山奥にまで出かける。夜の暗闇の岩場に寝ゴザ一枚持参した人々が身を横たえる。脳梗塞、狭心症、糖尿病、みんな近代医学から見放されかけた病を抱えている。「賽の河原」「死の谷」・・・・・・そんな言葉が付き添う「私」の脳裏をよぎる。だが、彼らはみな生きることに真剣である。その真剣さを作者が肯定しているから、叙述が無用に暗くならない。

「巷には戦後生まれの新老人が歩いている。ジーンズのパンツに、ナイキのスニーカーをはいた男や、カーリーヘアの女の、新しい、歳取ることに不器用な老人たちが歩いている。」

たしかに、いわゆる団塊の世代はつねに戦後のライフスタイルをリードしてきた。その彼らが、いっせいに、老いを迎える。いつまでも活動的な彼らは、社会年齢においてはなお若い。だが、衣服の下で、肉体は脆く儚く「毀れやすい」。「歳取ることに不器用な」とは、ピリリと皮肉のきいた知的な感想だ。こういう感想が随所で叙述を引き締めている。

作者はまた、「私」が時々見る夢の記述も差し挟む。一連のドラマのように進行するその謎めいた夢の中で、「私」は女郎であり、荒くれ男が「私」に迫るのだ。知的な感想が意識化された昼の思考なら、生命の根源としての性愛にかかわる夢は夜の無意識の思考でもあろうか。

昼の思考と夜の思考の両面から、「歳取ることに不器用な」夫婦の死に立ち向かう戦いを描いて、本書はさまざまな感慨を誘う。なお、表題の「逝きましょう」には、「生きましょう」の意がしっかりと含みこまれていると読んだ。

 

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