月刊群像19968月号より

 

あてどなさに身をゆだねる法悦

村田喜代子『蟹女』

             稲葉真弓

 

村田氏の小説を読むたびにいつも非常に奇妙な気分になる。地面が揺れるというのか、平衡感覚が崩れるというか、三半規管がぶれるというか、酩酊に似た膜に包まれるのだ。以前この作者によるトイレの話(野原に真っ白な便器が無数に転がっている場面が幸福な祝祭空間のように描かれていた)を読んだことがあるが、その後、自宅のありふれたトイレの便器が何か特別なものの化身のように思われてきて、化かされた感覚の面白さを味わった。この作者にかかると、鍋も自転車も耳も日常のありふれた顔を消し去り、シュールな別次元からの贈り物のように思えてくるところが不思議である。

そうした不可思議な物語世界は本書にも通じていて、ふわふわと柔らかな語り口に身を委ねていると、いつしかとんでもない世界に誘い込まれている。

表題作の『蟹女』は、創世記神話であるノアの方舟のように、あらゆる動物を集め、子を産むこと(人類増殖)、あるいはたくさんのモノに囲まれることに取りつかれた一人の女性の独白で綴られていく。どうやら女がいる場所は病院のようだが、病院という非日常の場所であるからこそ、かたりべである主人公は、ノアの方舟のあの世界救済の輝かしい色に包まれ、意識の中でおびただしい子供を産み続ける母神と成り得るのである。この女がなぜ入院しているのか、作品の中では明らかにされていはいないが、何かしら幸福な妄想の中に入り込んでしまった女であることはわかる。女は聞き手である医師に向かってこう言う。「キューピーの靴は、幻でいいんです。百個の靴、百個の鍋、百個のトイレがどんどんどんどん増えることを、頭に描くのが楽しいのです」

増殖と繁茂の夢はどこか農耕のイメージに通じる。そういう意味ではこの女は無味乾燥の現代の大地に舞い降りた農耕の神を演じているのかもしれない。子という種を限りなく増殖させ、包み育て、同時にあやしげにからみあった神話的な血の繋がりを楽しんでいるらしい女は、世界の夜明けである初日の出を見にいく人々の群れについてえんえんと語ったかと思うと、くるくる回る地球の無限運動のような生と性の恍惚を、その素朴な柔らかい語り口で語って、なるほど人間の生は、からまりあい増殖し、脈うち続く血と性の流れの中で営まれてきたということを読書に納得させてしまうのである。

子供を産まない女が増えて、母神という言葉も死語になりつつある昨今、出産と増殖の喜びは影が薄れているが、しかしこうした「豊満な」物語を読むのは、生命の明るみに触れるようで楽しい。むしろ妄想と狂気の中だけでしか語れない奇妙な明るさ。その明るさが、病院という幽閉の場所を借りて語られているところに、女の悲しみがあるといえばいえるのだけれど。

いずれにしてもこの作品集の底辺に流れているのは、地軸から少し浮いたあてどない明るさである。『春夜漂流』は団地に引っ越してきた家族が、広大な団地内をふと探検する気分になって歩いているうちに道に迷い、深夜までさ迷い続けついに家にたどりつけないまま眠る話だが、見知らぬ大地の形と家々の群れが、あたかも彼らを迷わす得体の知れぬ物の怪のように描かれている。

この得体の知れぬ世界への迷走は、どこか柳田民俗学のケからハレへの移行を思わせるところがある。ケが「日常、素面、正気、現実」であるとしたら、ハレは「非日常、陶酔、酩酊、狂気」の世界。村田氏の世界では、人々はいともたやすくケからハレの世界へと滑り込んでいく。確固たる世界などどこにもない。

ことに『ワニの微笑』で描かれている日常と非日常の絶妙な融和は、柳田民俗学が好んでとらえたケとハレの世界に通じるものがある。ありふれた家庭の居間の電気こたつの中に突如ワニの出現する不思議。それが病んだ心のなせる業であるとしても、「信じればそれは本当のことなのだ」という世界肯定の上に立てば、不思議は不思議でもなんでもなく、美しい幻影にすりかわる。

「そして女は山姥になりました」あるいは「男は、その鶴(しばしば蛙だったり、狐だったりする)を妻にしました」という民話に見られる人間と異界のモノとのおそろしくもやさしい合体に似て、『ワニの微笑』で描かれる家族は、最初はワニに怯えていても、やがては異界のものを容認し、それによって癒されていくのである。

実際、ある団地なりマンションなりで、上の階の住人の部屋に「ワニが出現した」としたら、現実の社会では黙殺できぬ出来事、事件となるに違いない。すぐさまワニ狩りが始まり、団地中、マンション中、あるいは町内まるごとパニックに襲われるに違いないのだ。しかしこの作品の中ではそのような事態は起こらない。下にいる住人は上の階の部屋にワニがいるかもしれない事態を、いぶかしみつつも受け入れてしまうのである。そうして尋常ならざる事態が、いつしか日常の中に取り込まれてしまう融和感覚こそ、あてどない日常を生きる現代の私たちのハレなのかもしれない。それを容認するやわらかな世界観、生活感に私は共感を覚えるのだが、「病み」の行方が作品の中では巧みに回避されているのも事実だ。

この作者の作品には、明るすぎるがゆえに歪んで見えてしまうレンズの向こうの風景が絶えずついて回るが、その歪んだレンズの中に立ってみると、日常の中に開く亀裂(ハレ)が、おそろしくもあるが同時にひどく懐かしい肉体感覚を呼びさます。どの作品にも均衡を失った(しかしそれは逸脱ではない、日常との危うい距離感を保っている)人々の姿が描かれているのだが、同時に明るい燐光が絶えず足元を照らしている。それはきっと、作者の上質のユーモアから放たれている狐火の光なのだ。

(文芸春秋刊・定価一六〇〇円)

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