別冊文藝春秋1991夏号より(『異界飛行』収録)

ラストで許そう、黒澤明

村田喜代子

 

四月五日。九州の博多。

雨もよいの妙に蒸し暑い午後。

小倉からたった一ト駅、新幹線に乗って黒澤明監督の「八月の狂詩曲」を観に行った。私の書いた小説「鍋の中」の映画化作品だ。はじめてその題名を聞いたときは、へぇーとおもった。狂詩曲。ラプソディーだと。あの小説のどこから、そんな題名が出てくるのだろうか。ナンデスカ?ソレハ、という感じだった。

しかし山本周五郎の小説「季節のない街」を「どですかでん」という奇抜なタイトルに変えた人のすることだ。意味があってのことだろうと推測した。それから約二年の年月が流れ、いつのまにか私の中に「八月の狂詩曲」という題名も定着した。試写会は三月にもあったが上京の用で行けなかった。今回は二度目で、地元の協賛企業を招待するようだった。新聞記者がくるのでも、地方の名士がよばれるのでもなく、こちらとしても気軽に出かけることができた。

興行館のほうでは、おいでになるなら席をいくつかとりましょうと言ってくれたが、私は二人分で結構ですと返事をした。家の子供も友人達もみな知れば行きたがるだろう。しかしつれて行けるわけがないではないか。観ればガッカリするだろうと、映画を観る前から予想できたからである。

それで俳句の友人を一人誘って、内緒で出かけた。彼女は冷めている人なので冷静に、「鍋の中」ではない「八月の狂詩曲」鑑賞をしてくれるだろうとおもったのだ。着くと上演まで少し時間があったので、席を予約して近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら待った。私は前日に、毎月連作の短編を一つ書きあげて、出がけに「文學界」へファックスで送ってきた。それでコーヒーはおいしかった。友人も地元の俳誌に何句か会心の作を出して、ホッとしていた。

私達のような人間にとって、いつも最大の関心事は今自分が書いているもので、それ以外に自分を幸福にしたり苦しませたりするものはない。病気、貧乏、家庭不和、失恋その他・・・・・・、世間には悩みの種は山とあり、ふつうの人ならおおいに落ち込む状況でも、書いているときはヒョイと横に置いてしまう。いたって単純素朴な生活だ。

お互いの作品のことなど話しているうち、すっかり熱中して、気がつくと上演時間が過ぎていた。急いで店を出て映画館に走った。駈けこむと開演の挨拶がはじまっており、暗い客席に腰をかけて汗をふいた。周囲はほとんど女性ばかりだったが、生命保険会社を招待しているということだったので、セールスンの人達だろうかとおもった。彼女達の中にまぎれこんで観た。

「別物とおもって鑑賞するといいわよ」

前もって友人に言っておいた。

「そうすると二つ楽しめるわ。小説と映画と」

やがて闇の中にスクリーンが動きだし、「八月の狂詩曲」がはじまった。冒頭の画面はカッと光った夏空だった。スクリーンを突き抜けるような正真正銘の八月の空。とてもいい。山の村にやってきた四人の孫達と、それを迎える年とった祖母。まさしくそこには「鍋の中」の田舎の風景があった。字に書いたものが映像になって、作者の前に帰ってくるのを観るのは懐かしい気分だった。これだから映画は強いんだよね、と私はおもった。絵は強い。映像は強い。目にみえるものはこれだけ強いのだ、としみじみとおもった。

黒澤明という監督は、ずいぶん贅沢な人である。昔私はシナリオライターを夢みる娘だった。黒澤監督のシナリオも集めていた。当時、彼の「赤ひげ」という映画を観て、その写真集を買って読んだ。舞台となる赤ひげ医者の診療所のセットが、たくさん写真に納まっていて、見えないところまで入念に造ってあるのに驚いた。細部まで凝る人だった。

それを暗闇の中でおもいだした。つまり贅沢な映像なのだ。色調、光と影、ふつうでないはずである。その最高の手で田舎の風景と、田舎の家の祖母と孫達の暮らしぶりが描かれていく。これだ、これ、と私は胸の中でつぶやいた。

しかし、ストーリーが進むにつれ、やがてチラチラと変なものが入ってくるようになった。孫達の親が出てきて、ハワイに行くんだと騒ぎはじめる。緑一色の山村の風景の中に異物が混入した感じで、映画のテンポを乱すのである。どうも親達はカリカチュア化されすぎていた。いちおう仕事もして、会社勤めなどしているいい年齢のおとな達が、こんなに単純にハワイのパイナップル成金ごときに大はしゃぎするものだろうか。

そうおもって観ていると、人物を描く監督の手つきにムラがあった。祖母はじつに陰影深く、手ごわく描いてある。それは小説どおりだった。つぎに孫達はふつうに可愛く描いてある。可愛いぶんだけ一般的リアリズム。そして彼等の親達は、とってつけたような規格品。

つまり主人公の祖母が純文学的造形であるのにくらべ、孫達は通俗小説的可もなく不可もなくで、親はマンガタッチである。この原因はなんだろうと暗闇の中でかんがえた。祖母が映画の中でしっかりと個性を持って立っているのは、原作の造形にわりと忠実に沿っているためだが、孫達はストーリーの幕引き以上の役をここでは持たされていないため、ただ可愛いだけなのである。親達は原作には出てこない映画だけの登場人物であるため、作りがもうひとつ浅いのだろう。

話はどんどん進み、いよいよおばあさんのアメリカ嫌い、というかハワイ嫌いのナゾが解かれていくことになる。なぜ彼女は病気で死にかかっているハワイの実の兄に、会いに行きたがらないのか。それは長崎の街を滅ぼし、彼女の夫の命を奪った原爆の幻影が、いまも残っているからだった。

このあたりから急にカメラは原爆慰霊碑や爆心地をめぐり、長崎の観光案内めいた趣に変わり、原爆についての観念的なセリフが出てくる。一年ほど前にシナリオをみせてもらったとき、後半は「鍋の中」の影も形もなくなっているのを知った。それはいい。しかし原爆の部分にどうしてもこれを入れなければならなかったとおもわせる、こちらに打ってくるものが感じられず、ただ奇異な読後感だけ残ったものだった。

良いシナリオというのは、字に書かれた段階ですでにそれが伝わるもので、それが映画になるとさらに俳優の演技、情景等が映像となってワッと血肉をもって迫るのだが、どうもそれが感じられなかった。なにか祖母の謎解きのための、大仕掛けな道具立てのような気がした。黒澤明ほどの人の手によって、なぜこうも観る者を打ってこないのか、不思議だった。

あとはひたすらストーリーの空獏に、じっと耐えた。リチャード・ギアという有名なアメリカの俳優も出演していたが、そんなわけで私の印象にはあまり残らなかった。たしかに映像は贅沢で、凝っている。しかし被爆地の観光案内めいたたくさんの場面は不要ではないかとおもった。

中に一つ凄くいいシーンがあった。爆心地の校庭のなんにもないひろっぱの真ン中に、孫達が立っている。砂と土の色だけの広い広い校庭に、子供達の影が小さく地面に濃い影を焼きつけていた。他のシーンはいらない。これだけでじゅうぶんである。

しかし、いやこの校庭シーン一つでいいとおもうような人は「鍋の中」をこのように作り変えたりはしないだろう、と私はすぐにかんがえなおした。黒澤明という人は、これでもか、これでもか、の人である。昔むかし読んだ彼のシナリオの「姿三四郎」の中の、あの強烈な適役の、名前は忘れたが月形龍之介のしつこさ。あの個性。

それが黒澤明という人の映画の構成の基本なのだ。グイグイと押して行く。ダイナミックに善と悪を構成する。そして、これでもか、これでもかと押しまくる。力学の人なのだ。力学の人は、なんにもない校庭の一シーンだけで満足することはないのだった。つまり彼は、百万言を一言にこめる凝縮の人ではないのである。

彼の百万言を通常の人の何倍も強いのに、その百万言を百回も重ねなければ足りない人なのだ、それが良いとか悪いとか言うのではない。ただ黒澤明という人はそのような熱気の人で、私はその正反対の人間だということだ。山間の空に浮かんだ大きな目の、超現実的な映像。それは凄い迫力だが、作りすぎの気がする。そんな大きな怖ろしい目を描き、パイナップル成金の身内に大騒動し、盲目の被災者に原爆慰霊碑を手でなでさせなければ、原爆は描けないのだろうかと疑問が残る。

いい場面は、しかしいろいろあった。ラスト近く、夕立のくる直前。雷鳴といなびかりの中で、「ピカがくる」と白いシーツをかぶりうろたえる老婆。雨の前の薄暗い家の中に、吹き抜ける風とはためく真っ白いシーツ。怖ろしいシュールな映像だった。

それからいよいよ最後の場面。

ピカがくる、と家を飛び出た祖母が野を走る。孫と親達が追って走る。風の中で手にした傘があおられて逆さになる。とたんに「野ばら」の音楽が画面いっぱいに湧きあがるのである。それとともに走る老婆の姿がふわっ、ふわっと浮く。なにかが抜けのだという気がした。黒澤明重力圏を脱出して、映画はみずからの内包する力で走りだしたのである。ふわっ、ふわっと老婆が走る。孫や親達が走る。このときの「野ばら」の曲の天上的な響きであること。ピカがくるというのに老婆の表情は恍惚としている。

ふとそのとき、老婆の至福の姿が、黒澤明その人にみえて、私はハッとした。

この映画はある意味で苦しい映画だった。原作と脚色部分の原爆をつなぐストーリーのつぎめは、ギクシャクしている。それがラストにきて奮然と立ち直ったのである。原作も映画もかなぐり捨てて、薄明の野を、飛ぶように、踊るように、浮くように走る黒澤明。老婆の着物の裾から、あなたの長い、年とったけれど骨太い毛ズネの足が出ているぞ。

「おばあさ―ん」と孫や親達が黒澤婆さんのあとを追う。一所懸命に追うのである。その追う人々がスタッフ・キャストだった。原作者、製作スタッフ、プロダクション、興行収入、名声・・・・・・等々。そんなものが「監督、待ってくれ」と追いかけて行く。

最初にころんでしまうのは孫の信二郎である。それが原作者の私だった。つぎつぎと親達と孫がころぶ。それらは製作スタッフ、プロダクション、興行館、等々だ。みんな地べたにへたりこみ、おいてきぼりをくう。あとはただもう野と混然一体になった黒澤明が、至福の天地をふわふわ駈けて行く。

「野ばら」の曲の中で、映画は終わった。

周囲の席の人々が立ちはじめたが、私は動けなかった。隣の席の友人もじっと腰かけたままだった。しばらくして彼女が私をみて、

「どうですか、原作者の感想は」

と聞いたので、私はちょっとかんがえてから返事した。

「ラストで許そう、黒澤明・・・・・・」

ありのままの気持ちだった。単純素朴な感情生活をモットーにしている人間なので、世界のクロサワも、巨匠も、私にはない。最初に創作した人間と、それを脚色した人間の関係だけでかんがえる。はじめと終わりがいい。その部分だけはとてもいい。友人は笑っていた。

 

しかし、月日の流れは早いものだ。黒澤監督から、「鍋の中」の映画化の話があって、もう二年以上たった。前作「夢」ができる前のことだ。映画化したい、ということなので、どうぞと返事をした。

その直後、前述の試写会に同行した俳句の友人に知らせると、

「黒澤さんなら、凄い大鍋の地獄ができるかもしれないわよ」

「乱」「影武者」等々、彼の映画は大仕掛けだ。

「大鍋の洪水だったりして」

と友人は言った。自分の作った小説が黒澤明という人を通過して、はたしてどんな映像世界を作るか、ちょっと予想できなかった。大鍋の洪水だったらどうしよう、とちらとかんがえたが、ま、いいやとおもった。小説は小説、映画は映画である。「鍋の中」はすでに自分の中で、書きあげて完結している。おもいのこしのない作品だった。自分の中で不満足感の残る作品だったら、映画化には二の足を踏んだかもしれない。どうぞ映画でも舞台でも、お好きなようにお使いください、とそんな気持ちで渡した。

舞台にでもと書いたが、この作品は去る一九八八年(昭和六十三年)、飯沢匠氏の脚本・演出によって、すでに青年劇場で舞台化されていた。飯沢匠氏は黒澤監督よりたしか年齢が上である。自分もそんなに先は長くないので、ぜひ今のうちに「鍋の中」を舞台化したい、というような毛筆の立派な手紙をいただいた。

飯沢氏の字は小さいうえに崩し字で読めなくて、文藝春秋の高橋一清氏に解読してもらった記憶がある。ところが「徹子の部屋」の出演で上京したとき、テレビ局に訪ねてみえた飯沢氏は長身の背中もすっきりとのびて、歩く足の速いこと。お爺さんなどにはみえなくて、先は長くないというのは氏の口グセとわかった。

それにしても飯沢氏といい黒澤氏といい、御老体とはいえなかなか男性的魅力に富む人達で、演劇界と映画会の名だたる男性をまいらせた「鍋の中」の花山苗はたいした老婆である。彼女は目方が四十キログラムもないトリガラみたいな体で、頭の毛も夏の夕暮れ軒先にぶらさがっているスダレのようなスカスカで、そのうえ局部的記憶喪失症、つまりだいぶぼけている。得意はお経と畑仕事。下手なのは料理。

結婚相談所に申し込んでもまずひろってもらえそうもないような彼女が、二人の名だたる男性に求愛されたのだ。自分が作った登場人物とはいえ、いまではすこしその迫力にタジタジとなっている。羨ましい婆さんだ。

奇しくも黒澤映画「八月の狂詩曲」で彼女を演じた村瀬幸子さんは、飯沢氏の舞台「鍋の中」でも同じ役で奮闘した。東京の朝日生命ホールだったか、舞台を観たが、敷居などヒョイと飛んで行く。

「ヒョイ、ヒョイとびっくりするほど軽いんですよ」

と飯沢氏が言っておられたが、本当に花山苗にそっくり、カエルみたいな人だった。

しかし、この花山苗という老婆の謎のボケぶりは劇化するとき、一つのネックになる。原作では彼女のボケぶりは自然なのか擬装なのか、さいごまで謎のまま放置されている。彼女の記憶の不確かさのせいで、四人の孫達は顔も知らぬとうに死んだ身内の怖ろしいロマンや、自分達の出生の秘密などを、生死を煮溶かした彼女の鉄鍋の中にのぞきみることになるのだが、面白いことに飯沢氏の舞台も黒澤氏の映画も、申し合わせたようにこのボケが擬装という設定になっている。

つまり、彼女は本当はボケていなくて、ただ過去のつらい思い出を葬るためにわざと忘れたふりをしているのだというのである。そしてそのおもいだしたくない過去とは、戦争にまつわることであるという点で、舞台劇「鍋の中」も映画「八月の狂詩曲」も共通しているのが興味深い。当然できあがった作品は両方とも過去の戦争の傷跡がテーマになる。

舞台「鍋の中」では、ハッキリと反戦をうたっていて、ラストでは戦死した兵隊達のドクロなどが大鍋の中で揺れ動き、その上に菊の紋章を描いた垂れ幕が半分現われた。じつにショッキングな鍋だった。黒澤氏は「八月の狂詩曲」の記者会見で、この映画に原爆問題ばかりみないで、素直に祖母と孫達の交情をみてほしい、というようなことをのべていたが、あれだけ劇中に原爆を入れてそれはムリだろうと私はおもった。あんなデッカイ材料を混ぜれば、当然目について問題提起してしまうのはどうしようもない。

とにかく、このように私の「鍋の中」は、なぜか原作には影も現われてはいない戦争を、奇妙にかかえこむのである。その点について、おもいだすのは飯沢匠氏の言葉だった。前述の朝日生命ホールだったかの、舞台の終わった直後。大鍋の装置や心中杉の道行き、気の狂った軸郎の回想シーンの仕掛けなど、飯沢氏の舞台はからくりがいっぱいで、それをいちいち動かしてみせてもらったが、そのとき薄暗い舞台の上で氏がこう言われた。

「原作をこんなふうに変えてしまいましたが、私などの年代の人間には、どうしても戦争というものが時代的に入ってきて、それを抜きにしては語れないのです」

そうかもしれないと、私はおもった。私は一九四五年(昭和二十年)、終戦の年に生まれた人間で、戦争の記憶がない。しかし、飯沢氏は戦争を通過した人なのだ。すると氏とほぼ同じ年齢の「鍋の中」の花山苗の人生にも、戦争は通過しているはずである。そこで彼女の奇妙なボケぶりの裏に、戦争の傷跡を重ね合わせたくなるのだろう。

飯沢氏から脚本執筆のころより舞台ができあがるまで、たくさん手紙をいただいたが、反戦劇になっていることは公開の日まで知らされなかった。舞台がはねたあと、その舞台の上ではじめてうちあけられた。私はそれを飯沢氏流の誠実さとみた。そして、なるほど、これも一つの「鍋の中」の観方かもしれないとおもった。

こんなふうに「八月の狂詩曲」の前に、舞台の「鍋の中」を体験したおかげで、一年前に黒澤プロダクションからシナリオを送ってもらったとき、原作と大幅に変わり長崎原爆が入っているのをみても、たいして驚かなかった。黒澤氏が飯沢氏と同世代の人であったことに、あらためて気づいただけである。これに八十何歳の村瀬幸子さんを加えると、三人の御老人が勢ぞろいする。二つの作品で花山苗を演じた村瀬さんはどんな感想か、そっと聞いてみたい気もした。

ともあれ「鍋の中」という小説は、そのままでは舞台にも映画にもなりにくい作品だ。黒澤氏が新聞の対談かなにかで、「ストーリーに発展がないので」いろいろ脚色したむねを語っておられたが、実際そのとおりである。

小説と映画は性質のまるで違う表現形式だ。映画は映像でみせる。小説は言葉でみせる。とくに私の小説など、目にみえないものばかり追っかけている。そのみえないものをいかにもみえたように書くのが、小説を作るときの醍醐味のようにおもっている。映画化にもっとも遠いところにある作品だ。

ことに「鍋の中」はそうである。この小説を書いたとき、私が意識したことは、ストーリーの排除だった。それから明確なテーマの排除。舞台のひろがりの排除。これで映画になるはずがない。

なぜそのようにしたかというと、人に語るのに、低い声というのがある。耳を澄まして、息をひそめ、ようやく聞こえてくる声というものがある。そしてそれを聞きとるにはどんな物音も、周囲で起こってはならないのだ。舞台空間が広がったり、ストーリーがにぎやかに組まれたり、拡声器のいるような大テーマが叫ばれたりしてはならない。

それをやると、作中の祖母と思春期前後の孫達の、世界のふちから先祖の、血縁の、人間の煮溶けた鍋の底をのぞくような、淀んだ時間が壊れるからだ。そして祖母と孫達の至福の世界も薄まる。「鍋の中」は、低い声の力で語られた世界の物語なのである。

とはいっても、そんな閉塞した世界では、商業映画の場合なかなか客をよべないだろう。純文学という言葉は嫌いだが、こちらは少数の、映画は多数の人を相手にする。事実私の「鍋の中」を買って読んだあと、「何が何だかよくわからなかった」と素直に感想をのべてくれた人が何人もいた。ストーリーも、解答もない小説だからである。

試写会では女性客のあいだから、ただただ笑い声が起こった。劇中の祖母と孫達のやりとりにおもわず笑いが出るらしい。クスクス笑い、大笑い、溜息・・・・・・と観客の反応が映画の進行とともに変わる。そこには「何だかよくわからない」人間は一人もいないのだ。よくわかることと、よく伝えられることだけが、しっかりと描かれているからだ。

試写会の帰路、友人が言った。

「よかったじゃない。あなたの小説を読んで何が何だかわからなくて困ってた人達を、みんな黒澤さんの映画が引き受けてくれて」

そうだなと私もおもった。そして一人の女性の顔を瞼に浮かべた。一昨年アメリカへ一ト月ほど行ったとき、在米邦人の通訳の女性と旅をしたが、長くなると疲れて気が立ち、ちょくちょく口喧嘩をやった。そのとき彼女にこう言われた。「あなたのしゃべることって、あなたの小説と同じでゼーンゼンわからないわ」小説に感応するか否かは資質の問題で、感応できない人間を無理に巻きこむことはない。

「八月の狂詩曲」はアメリカへ渡って、たぶんいちはやく彼女の眼にとまるだろう。そして試写会の女性客が笑ったり溜息をついたりしたのと同じように、彼女を楽しませ、わからせてくれるだろう。長い間離れている懐かしい日本の、古い田舎の風景を、見事な映像でみせてくれるだろう。それもいいのではないか。

小説を書くときは頑固に、だが、作品を手放すときは軽く。そういうのが私は好きである。

ただ、原作を読んで「鍋の中」を面白かったとおもう読者は、映画を観てどう感じただろう。

「映画化おめでとう」

「かならず映画、観にいきます」

「撮影の進行状況はどうです?」

などと、この半年ほど、ずいぶんたくさんの人達に声をかけられて、複雑な気分を味わった。

「はあ、どうも。映画のほうはよく知りませんので」

とお茶を濁した。これだけ原作と違えば黒澤氏とは会っても話すことがないようにおもわれたので、連絡は文藝春秋にすべてたのみ、私は自分の仕事だけに専念した。そしていよいよ今月に入ると試写を観た人達から、

「原作とずいぶん違うじゃありませんか」

などと電話がかかってくるようになった。あちらを立てれば、こちらが立たず。両方うまく折り合うのがむずかしいことである。

「小説のほうがよかったら、小説をみてください。映画のほうが好きだったら、そちらをとってください」

むろん作者の私は、自分の書いた小説のほうにきまっている。しかし映画の最初の場面の、射抜くような八月の空や、前述の山村の佇まい、夕立の前の家の中の風にはためく白いシーツ、校庭に立つ孫達の黒い影、ラストの野を走る映像などは好きなので、いただいておきたい。小説の「鍋の中」と共に、その映像も綴じ込み付録で、記憶のアルバムに保存させてもらおう。

ところで前述の友人などは、情死の杉の場面だけはいただけないと言う。「鍋の中」の心中杉のエピソードは彼女の句、━夏深く情死のように木は立ち枯れ━にヒントを得て、書きこんだものである。「八月の狂詩曲」の他の改作箇所には寛大な友人も、自分の句の哀れな変貌ぶりには驚いたようだった。小説の情死の杉とは似てもつかぬ奇妙な木が、ヌッと立っていたからだ。改作は大胆だが、部分になると黒澤氏はじつに原作に忠実に、杉や蛇や河童やばらの花を盛りこんでいる。そして残念なのは、ばらの花を除いてそれらがあまりいい映像とはならなかったことである。

若いころ私は伊丹万作(十三氏の父)監督の名作「赤西蠣太」の脚本を古本屋でみつけ、たちまち映像表現の面白さに魅せられてシナリオの勉強をはじめた。私が最初に学んだ表現形式は、映画シナリオだったのである。だが紆余曲折を経たのちに、シナリオを捨てて小説を選んだ。今その私の小説が、若かったころ巨山のように仰いだ監督の手によって、脚色され映画化された。人生とは面白いものだ。

しかし、かんがえてみると「八月の狂詩曲」に対する私の不満感こそは、かつてわたしをシナリオの世界から小説の世界へ飛び出させた原因である。目にみえるものによってしか表現することができない映画の、映像というものの、不自由さ。

試写会から帰った夜。私は自分の机の前に座った。机上には一冊のコクヨB4判四百字詰原稿用紙とトンボ鉛筆と消しゴムが置いてあった。以前はタイプライターで打っていたが、今は紙と鉛筆だけの仕事である。簡素な工房で自分の好きなものを作る。その晩、机の前に座って、私はしみじみと、小説という、字で描く世界の身軽さと自由を感じた。

そして原作と映画のはざまで困難な仕事を終えた老監督に、いまは慰労の言葉を贈りたいとおもったのである。

 

 

 

 

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