「新潮」1998年6月号より

第二十五回川端康成文学賞発表

 

受賞作 望潮     村田喜代子

 

受賞の言葉

          村田喜代子

 

『望潮』は壱岐という実在の島をモデルにした。選考会の時刻、何も知らぬ女友達が郷里から届いたという魚を持ってきてくれた。玄関で彼女が鯵や鰤を出していると部屋の電話が鳴った。受賞の知らせの電話だった。再び玄関に戻ると友達はもう帰っていた。私は残された魚を見たとき、ハッと彼女が壱岐の出身だったことを思い出した。賞は授かり物だ。自分ながら不足の多い作品に、過分の評価を頂いて身に余るものと感謝します。

 

 

選評

 「望潮」を推す          水上勉

 

村田喜代子さんの「望潮」は北九州の架空の島を描いたものだが、わたしという話者と、十人ほどが集まって恩師の喜寿のお祝いと忘年会をかねた魚屋の二階の会合へ出席する。恩師は俳句をやっていて、ある年の春の吟行で箕島へ行った話をする。十人の教え子らは先生から島でくらす老婆たちが、カニが磯からあがってきたみたいに、箱車を押してあらわれて、タクシーに向かってからだをつの字にして突きすすんでくる様子を聞かされる。婆さんたちは、平ベたくて小さいからカニそっくりである。運転手の話で、老婆たちが「長生きして家のものに迷惑をかけるより、ひと思いに死んだほうがええ」「家族には結構な金が出ます」「あの年寄りの中には、うちのお袋も混じっとるんです」などと吟行旅行の仲間にいうのだが、この話を村田さんは巧妙に書くのである。話者であるわたしは、友だちとふたりづれで十年経ってその島へゆく。むろん、恩師からきいた島の老婆たちの様子をきいてまわるのだが、恩師からきいたような風景はない。すべては消えている。ところが、村田さんは、話者の寸法と同じ身の丈になって、島で逢ったひとりの婆さんのとこを話すのである。このことも恩師への電話で報告される。話者のわたしに統一して、語られた方が・・・・・・という意見を出す委員もいたが、私はべつに、話の筋に無理は感じなかった。衝撃的な話をごく自然に説得されもしたし、かえって村田さんの話し方にのせられた。巧妙な語りを工夫する人である。それにしても小説でなければ表わせないけしきをみごとに描いていると思えた。今回は、他の候補作にもたいへんいいものがあり、名をあげるのもさし控えたいところだが、山田詠美、辻征夫、島田雅彦氏等であった。それぞれの小説世界にたのうしたが、稔りの多い年まわりだった。

 

感想              三浦哲郎

 

「望潮」には、意表を疲れた。これまで村田さんの作品には毎度なにかと驚かされてきたが、今回もこの人の用いる言語のなみなみならぬ喚起力に改めて瞠目させられた。

腰がの字に曲がり、そのの字の先端にちいさな頭、下に二本の短い足がついている。そんな老婆たちが、幼児の歩行器のように手製の箱車をごろごろ押しながら、とれたばかりの黒光りするワカメが干してある海沿いの道を、轢いてくれそうな車を狙って蹌踉と横切っていく姿、また、日の出の浜でおびただしい数のシオマネキが海に向かって一斉に鋏を打ち振っている光景は、当分忘れられそうもない。

私は、実作者として、短い作品は出来れば一つの視点で貫きたいと思っているが、人それぞれに流儀があって、この作品は前半と後半とで視点が違っている。これはもちろん、作者にそれなりのたくらみがあってのことで、そのために作品のよさが損なわれているとは思わないが、それでもやはり私個人としては、一つの視点で貫かれていたらまた一段と凄みが増したのではないかという思いを捨て切れない。

「眠りの材料」は、繊細にして強靭な才気の眩しい作品だが、たとえば氷山のように、今ここに現れているものよりもまだ水面下で時を待っているより大きくて豊かなものの確かな手応えの方に、私は魅力と畏怖を感じた。「遠ざかる島」は少年時代の思い出だが、清潔な文章、けれんみのないみずみずしい作風が印象的で、読後感がすこぶる清爽であった。けれども、短編小説としては、いささかおっとりしすぎているのではないかと持った。もう少し言葉を惜しむべきだという気がした。

 

の字の老婆を推す       竹西寛子

 

村田喜代子氏の短編小説では、欲奇想天外なことが起る。快い飛躍がある。単なる仕掛けではない。それらは、氏の人間観察の深さと、想像力の豊かさの提携であって、作品の厚みと奥行きに、氏の小説作りの巧みはよく示されている。

それに、大方の作品に、一度読むと忘れようのない情や景の描写がいくつも嵌め込まれている。特有の感覚を普遍化させてみせる才能とわざは抜群であって、それは村田流とでも呼びたいほどのもの。村田流の描写に出会うと、待ってましたとばかり手を打ちたくなる。

「望潮」は、よかった。

びっくりした後で、しんとした気分になった。玄界灘に浮かぶ箕島の老婆の奇想天外な行為に、人の心の淵を覗かされた。

「えーい、ヒラメ、ヒラメ、ヒラメ。イカに関サバッ」

というような導入につられて読んでいくうちに、粗末な服にもんぺをはいた老婆が現れる。

「ほとんどエビみたいにの字に曲がった腰。の字の先っちょに小さい頭が乗っていて、の字の下に二本の短い足がついている。」歩き難いので、「幼児の歩行器みたいに手製の箱車をゴロゴロ押して歩いて行く」

こういう決定的なイメージ喚起で、海に向かってハサミを打ち振る砂浜いっぱいの小ガニのシオマネキが、海の精気を発散して黒々と光るワカメが描かれる。「の字の老婆」とはまことに言い得て妙ではないか。

生の残酷を冷静に見届けようとする眼と、生の残酷をやわらげようとする眼とが拮抗して、快い飛躍のうちに村田流の世界をつくり上げている。人間の強さとは、人間の襟とは何であろうか。の字の老婆は、消えてのち、そんなことも考えさせる。

 

イメージの喚起力        秋山駿

 

村田喜代子氏の『望潮』がおもしろかった。この作家は奇妙な感覚を持っている。玄界灘の小島、ワカメを道端で干すために、その長くて黒いやつがとぐろを巻き、「まるで島全体が毛をはやしたように」見える。その道を、「ほとんどエビみたいにの字に曲がった腰」の婆さん達が、手製の箱車をゴロゴロ押して歩く。車に当って死ぬためにである。「―また、カニが出てきた」と運転手がつぶやく。「―あの年寄りの中には、うちのお袋も混じっとるんです」

こういうイメージが、ひどく鮮やかだ。喚起力を持っている。お伽噺ふうでなく、現代の現実や日常に足を着けている。たぶんそのための工夫であろうが、後半、島の光景が、電話での報告として描かれるのが弱い。

これと対照的なのが、辻征夫氏『遠ざかる島』。たぶん伊豆の大島で過ごした小学生時代を描くものだが、澄んだ水が水路に従って流れるような、いい文章である。ミミズクを捕らえる場面、見事である。ただ、父・母・お手伝いの女性との、微妙な交流を描くところどころに、ちょっと透明度の薄くなるところがある。惜しい。

山田詠美氏の『眠りの材料』には、物語る力があった。自殺志願者の若い娘(光っていた)も出てくる題材だが、一気に読ませる。私は、冒頭と結末が、力が弱いと思う。

岡田睦氏の『一月十日』は、いわば神経症的な日常を描くもので、細部に私は共感した。年賀状の書けぬ場面など、深沈としている。だが、クリニックに行くところ、あれは甘い。

石牟礼道子氏の『目礼』では、念力のこもった文章という感を受けた。だが、念力が、明晰を外して空回りするところがあった。

日野啓三、宮尾登美子、島田雅彦氏の作品には、趣向倒れ、という感があった。

 

あとの想念           田久保英夫

 

私にとって難しい選考だった。

村田喜代子氏の「望潮」は、玄界灘の小島で、おおぜいの老婆が箱車を押しながら、体をつの字にまげ、車の「当たり屋」をして死んでいくという、いささかショッキングな題材だが、その老婆を磯にぞろぞろ這い出る蟹のシオマネキに重ねて、つよい情景を描き出している。ことに最後に、砂浜一面のおびただしいシオマネキが、海を恋うように鋏を打ち振るさまは、鮮烈である。

しかし、前半はそうした話を「わたし」が、高校時代の先生から聞くのに反して、後半はその先生に視点が変わるのは、気になる。その視点の切り換えや、老婆たちの一様の動きに、技巧的な手つきが目立つのはいなめない。

私はこれに劣らず島田雅彦氏の「ミス・サハラを探して」に、魅力を感じた。ギリシャの大叙事詩の英雄ユリシーズから語り始め、その一舞台になったとされるチュニジアへの、旅行の誘いに乗る。つまり、ジェルバ島から首都チュニスへ、さらにサハラの砂漠から沙漠、オアシスからオアシスへ、旅行者の眼を通しての短編である。軽やかで、皮肉な冷静さやユーモアを帯びた筆致だが、さまざまな沙漠、そこに暮らす遊牧民(ノマド)たちの姿が、濃密に出ている。

美少女を千ドルで売るという母親、ラクダの商人、詩句の記憶力抜群の朗唱詩人など、砂漠の真っ只中の素朴で堅固な生活を見ると、飽満した文明圏の私たち都会人の暮らしを、嫌でも対照的に感じてしまう。この根底にあるのは、二つの「ユリシーズ」、帰郷の一念に憑かれた冒険譚のヒーローに対する、ダブリンの一市民ブルーム氏の現代生活である。私はこれを読んで、自分の内に潜む「時間の止まりそうな沙漠」を見つめないわけにいかない。私はこの短編の賞に、こうした新しい味の作品を加えたい、と思った。

山田詠美氏の「眠りの材料」も、十五歳の少女が、一人の若者に抱く絶対的ともいえる欲求をとらえて、みごとと感じた。こういう情念に眼を注いだ作品を、私はほかに知らない。ただ娘が「なかったことにする」と言って去る心の転換と、十数年後に真っ白い遺書を残すまでの深い空白は、巧みな運びで処理されすぎた気がする。

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